60年前の人口北海道一だった!(二)~④

2019年01月06日

 話を山ノ上町の海陽亭に戻すと、もとは官船通済丸の板前松井某が魁陽亭としてはじめて次に長谷川某、つぎに有名な宮松家一族、そして今の宮松重雄社長の代ということになるらしいが、ここで言いたいのは信香町から都心が北上していく過程で山の上町の時代があったということである。

 まず、住吉神社。もとは墨江といい、明治二十四年に住吉にかわったのだが、原点はやはり、山の上町の弁天社境内にあって、それからいまの双葉女子学園のところ、十四年のコンタン火事後に現在地におちついている。七月祭礼には山車が勝納、山の上、入船、港、堺、色内、手宮から各一車出て、とくにニシンの豊漁の時は賑やかなものだったとか。病院の始まりも安政年間に函館奉行が出雲の医者佐藤玄悦を山の上町に駐在させ、これをミナモトとして小樽病院の前身が信香、潮見台と移り、明治十九年に公設病院として新築されているが、入院代は、上が一日一分二朱、中が一分、下が三朱という。一両を二、三万円に換算して、一分は一両の四分の一、一朱は十六分の一。さて高いか安いか?

 海陽亭や水天宮の板谷宮吉邸からは「オタルナイは西地第一の大湊にして…。海岸立石多数ありて海上の遠望最も良し…。」(松本日記)が一望のもとにひらける。その小樽港は不開場港として、スタートしているが、明治五年アメリカから開拓使用品をつんだ雇外人の横浜丸が入港して以来、次第に門戸が開放された。その年で市街地の土地払下げ価格は四坪六十銭から一円五十銭。また銀行は第四十四銀行(国立)支店が明治十四年に設置され、続いて、第六十七、三井各銀行支店が名のりをあげた。さて山口瞳先生の海陽亭の夕食のお献立。カスベの煮こごり、カニの子、奥村の卯の花、タチ鍋、若め汁、ジャガイモなど。明治の小樽も本道輸入米の四割を食べ、魚が豊富なので栄養は良かったらしい。

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見直せわが郷土史シリーズ④

小樽市史軟解

奥田二郎

(月刊ラブおたる39号~68号連載)より

~2016.3.19~