氷割船(ザイワリセン)がやってきたぞー(二)

2016年03月28日

 交通 市内の駅は、手宮、開運町、銭函それから札幌へ。明治十四年六月札幌ー幌内の鉄道開通。十五年十一月手宮―札幌開通によって石炭が小樽桟橋にはこばれるようになり、奥地開発も進んだ。札樽間は朝九時に手宮を発って正午札幌着の一日一往復。明治二十年代で手宮札幌間上等七十八銭、中等五十五銭、並三十二銭。開運町駅は住吉駅にかわるが、これが南小樽の前身。一方小樽銭函道路づくりが大工事だった。絶壁と海の間の開削だからだ。

 明治八年琴似屯田兵の一行が小樽に上陸して琴似に向かうのに、波打際を波の引けたときに飛び飛び渡ったというが、市内でも入舟町から堺町へゆくにも波打際をわたった。

 大工 明治十四年のコンタン大火のあとは大工がひっぱりダコで一日に二十五銭の工賃が一円から四円にもあがり、アブㇰ銭でにわか大尽になった連中は仕事終ってフロに入って、夜十時に割ぽう店にあがる。すると銚子一本に一皿ついて「いくら?」「ハイ七円でゴザリマス」。これが暴利料理店で有名な一二三楼。海陽亭につぐ大きな店だったが、暴利のウラミかいま跡形もない。

 墓地 本願寺別院が開運町下手にあり柳湯があり、その隣が墓地、あるいは新富町の料飲食街になっているところが竜徳寺の墓地などというが、稲穂町の正法寺は墓地兼焼場だった。また入船交番のあたりとか住吉神社ウラなどは四本柱を立てただけの野天で死体を焼いたとある。まるで戦場だ。ま、市内至るところ火葬場ありだ。

 鮭 石狩川口に秋ザケがむらがると小樽の女郎屋の女たちは化粧を忘れて石狩へ遠征して出稼ぎだった。………。春四月、氷割(ザイワリ)船(三百石位)が入港すると花街がたちまち活況、一陽来復である。南部屋と云う女郎屋は七十人の女をかかえ、一日三千円以上を水あげ、ナンバーワンは月七百円かせいだそうだが、二百十日がくれば港は火が消えたよう。こうして今昔の人生がくりかえされる。(写真は小樽市史より)

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