山中の元旦を涙々の小樽在勤侍(一)

2016年04月02日

 いったい近藤勇と土方歳三どっちがツヨい?どっちも沖田総司以下だと当節のヤングは答える。が、みなお百姓に毛のはえた郷土上りの撃剣如き(私が子供のころは剣道といわずにゲツケンといった)程度だから、テレビのチャンバラというわけにはいかない。実際に二人も切ったら人間のアブラで次は切れないし刀も曲がる。しかしこの幕府公認の殺人機動隊は大平になれた武士とちがって「京洛の夜は更けて」の実践できたえたから、薩長のお侍さんより強かった。上段下段なんてものではない。後か横(フスマ越し)から刺すのだ。卑怯というのは武家の空文句、なんでもいい勝ちやいい、効率の高いほうがいい。

 近藤勇は舌刀をつかった。いったん大刀を合したら舌のように相手の刀をペロペロなめるようになぶってみる。相手が緊張の極で刀がコチコチ固くうごかなくなったら、サッと飛びこんで突く。これが実践技だ。夜歩くときは道のまん中をゆく。軒かげから刺されるおそれがあるからで、この点小樽で果てた近藤側近の永倉新八はさすが松前藩百五十石の子で、後も樺戸集治監でゲツケンの教師をやり、剣客岡田十松の愛弟子だっただけにオーソドックスの剣術つかいだったらしい。

 話は横道に外れたが、土方も加わっていた幕府脱走軍が全道を制圧し、その一部が小樽にあらわれたのは明治元年(一八六八)の正月近くというのは前にかいた。

 ところがおたるには前から幕府の石狩在勤のサムライがいて、中には脱走軍とよろしくやっていたものもいたが、戊辰戦争中に新任された連中は殺されると感じて逃げた。

 その中の一人に長州藩士の井上弥吉というのがいて、銭函へ走った。ちょううど冬をむかえたので逃げるにも船がないときで、余市方面に行けば函館に賊軍の本拠があるから逆方向の銭函をえらんだのだろう。

 銭函はニシンの千石場所で沢山ゼニが入るから珍しくも和人がつけた地名で、ドル箱とおなじなのだ。そこの網元の一人である西谷嘉吉という井上の知合い、というより役所のエライさんと業者の仲だろうが、井上をかくまってくれるという。

 しかし銭函では危い。村から八キロほど山へ入ったキコリ小屋がいい、ということで、丸木柱の掘立小屋三坪、四囲は笹竹、屋根は枝ぶき、土間のまんなかに大きなイロリ、ベッドは木の枝を折りかさねた上に葉っぱを敷き、その上にゴロりはいいが昼夜生木をもやして暖をとるから目にしみる。おそらく春香山と朝里峠のあいだあたりで、春香山なら標高九百メートルで小樽が遠望できる。

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