南郭と北郭(その三)

2016年05月01日

 小樽の市街は南北に広がっており明治中期以後洋帆船汽船が色内手宮方面に投錨するようになると船員達を慰労させる傾斜の巷が要望さるるに至った。ここに於て明治四十年の春道庁は土地繁盛の北漸状態から新たに手宮に遊郭地を指定し北郭と称したが、すなわち大文字楼、いろは楼、日本楼、松盛楼、品川楼、北海楼、呉竹楼、広栄楼、開新楼、元禄楼、外十数軒が南郭を向うに廻して百数十の奸艶を擁し雄を競った。

 現在の北成病院の通りはこれら高楼軒を並べ歓楽境を形づくって春は曲水の宴秋は後庭の月に浮れる嫖客粋士吞吐していたわけであるが戦後赤線区域の廃止とともに昔日の姿を失い、数年前までは青楼もアパートなどに転身していたがその後火災に遭ったり建て替わってしまった。これも塗りつぶされた二階戸袋に僅かに音羽楼の文字が判読出来る。

 長崎に丸山遊廓があった。鎖国時代長崎出島に和蘭屋敷があったころの蘭館に日本人で自由に出入り出来たのは丸山の遊女達だった。その丸山遊廓の入口に思案橋という小さい橋があった。客は、思案してから意を決して渡ったことであろう。思案橋ブルースなんて歌謡曲も現れた。

 我小樽の南郭から(緑町方面へ)帰り道に洗心橋がある。せめて帰りに心だけは洗ってというわけであろう。南国と北国逡巡と改悛、この思案橋と洗心橋こそ好一対のコントラストではあるまいか。

おたるむかしむかし 下巻

越崎 宗一

月刊おたる 昭和39年7月創刊号~51年12月号連載より