日本郵船小史9~(五)欧州大戦より第二次世界大戦まで

2017年09月13日

(大正3年ー昭和17年)

(2)北日本汽船会社の設立と樺太航路に於ける対立関係

小樽を起点とする樺太庁の樺太命令航路の経営者は当社の外に大阪商船(大礼丸筑後丸就航)本間合資会社(駿河丸・幸成丸)山本久右ェ門(敦賀丸)の3社であつた処、3社の収支香しからず、且つ経営航路寄港地が区々で各線の発着不統一であつたため、樺太庁は各船主の合同を慫慂し、大正3年(1914年)3月30日樺太大泊に本社を有する北日本汽船株式会社が設立せられた。

当社が冬季航路として樺太庁より受命した小樽大泊真岡線(夏期逓信省補助命令航路)に使用中の砕氷客船上川丸(1465G/Т、弘前丸と姉妹船)が大正8年(1919年)2月利尻島に座礁し救助不能となりたるにより、北日本汽船は樺太庁の航路補助を受け本航路に普通貨物船を配船した。当時の砕氷船は当社の弘前丸、上川丸、北日本汽船の大礼丸の3隻以外になく、弘前丸、大礼丸は大泊・小樽直航線に就航していた。大正10年(1921年)当社は上川丸の代船として新造砕氷客船千才丸(2669G/Т、建造費約80万円)を6月19日より配船したので、北日本汽船の冬期補助は廃止された。

北日本汽船は前記樺太庁の冬期航路補助廃止に先立つ同年4月に樺太庁の補助命令航路として東京・小樽・樺太線を開始したので、当社に於いても同年6月同一航路を開設し、翌11年当社が樺太庁の補助を受けた。樺太諸航路は樺太産業の開発ならびに移民の輸送に非常に貢献した。