四時間にわたる講演會

2016年06月20日

四十年誌(あとがきにかえて『冥途旅行支度』から)

知己知友の諸君に対し告別の遺辞 私儀

石川県大聖寺藩の住人にて明治二十九年故あり兄の勧めにより渡道し聊(いささか)の抱負を有したるも土地の民情に狎(な)るるまで一時小樽にて他の雇員となり海陸連絡に関する業務に従事せり。

後(の)ち亦(ま)た諸方より種々の事業に招聘(しょうへい)せられ其の義情に絡(から)まれて自然自己の抱負に手を染むるの暇なく不識不知の中に他人の事業にのみ専心没頭(せんしんぼっとう)し全壮年時代を唯(た)だ他人の為に働き又(ま)た時に公共事の為に奔労し自ら是れといふ事業を為さずして徒(いたず)らに老(おい)ぬる一生を過ぎ来りしなり。この間師訓に基き常に誠義一貫を座右銘とせり。

顧みれば小樽市未だ六千戸数の頃より今日まで幾十年間本市の御厄介(ごやっかいに)為り其の間には公共事につき私交上につき多少の誉と追慕とを受けたるも其の半面に於(おい)て亦(ま)た多少の侮辱を蒙(こうむ)り或は欺瞞にかかりしこともあり。必竟(ひっきょう)之れ等の交錯は我心(わがこころ)の至(いた)らざるの不徳にして却(かえっ)て人様に種々の迷惑や心配を懸けたることも尠(すくな)からず心陰(ひそ)かに慚愧(ざんき)に堪へざるものあり。然るに知己知友の多数により種々盡(つく)せぬ御同情と御懇宜(ごこんぎ)を賜り常に感激に堪えずして之(こ)れに酬ひ(むくい)んとするも窘窮(きんきゅう)にして其の意を得ず。心ならずも絶えず誠を捧げつつ之(こ)れに代へんとするも其の是れ越(を)も為し遂げ得ざりしは返(かえす)に返(がえす)も慙悔(ざんげ)の至りなり。

(中略)

茲に知己知友の諸君に対し厚く感謝の意を表し併せて諸君の御健康と御多祥(ごたしょう)を祈り冥途の門出に際し告別(告別)の辞とすること云爾

                                 山谷敏行 八十歳(昭十九年)

‐p165~167‐

 

原稿 小樽明治二十九年から四十年誌付手宮発達記

山谷敏行の実録の郷土史を写す

 

   原著者   山谷 敏行(やまや としゆき)

   書き写し者 山谷 昌生

 

平成二十八年一月二十八日

印刷所 大阪市東成区中道四丁目五番地十四号

    株式会社 オーエム

    五十部限定印刷

 

『そして、小樽市図書館には山谷敏行氏の記事が。』

IMG_5417手宮發達の回顧に面白い史的拾ひ物

小樽郷土研究例會ひらく

小樽郷土研究會では小樽市發達の一要素である手宮町發展の状況につき元市議山谷敏行氏を招聘し手宮發達の回顧の題下に講演會を二十六日午後六時半より小樽圖書館において開催したが山谷氏は二十九年来樽以来現在に至る同町の變遷について小樽市の状況と手宮町勢を概論として述べ、それより同町の主要道路横には手宮通り濱町通り手宮裏通り縦には舊(きゅう)盬谷街道八間通り祝津街道の變遷振を年代別に詳述し人口戸數の増加と共に諸施設の整成を詳細に説明したがなかんづく興味をひいたのは出面取りの語の起源目下能島氏邸にある湧水と手宮小學校崖下に出る水、保護者會の嚆矢、同志會の組織、義勇消防の新設(火災頻發に因して)遊郭の設置等である

出面取の語は炭礦汽船時代鈴木市次郎氏が人夫の供給をして居つたが三百餘人も使つて居つた爲め監督が不充分で從つて一人の人夫があつちこつちの場所に行つて賃金の二重三重取をやつたそれで面さへ出せば賃金が得られるといふ風であつたので是等の人夫を出面と諷刺したのが遂に出面取といふ職業的言葉となり之が全道に通用さるるに至つたものである

問題の水はもと手宮町の飮料であつたのであるが水道敷設後は使用しないが之は小樽で第二の良水である税務署が會つて酒醸造の水を検査した時奥澤の水が第一で次にこの水と指定した程で水量も豊富にあるので手宮校下の湧水と共に之は何かの方法で保存する事が將來萬一有事の際必要であると力説

保護者會はもと小學校の卒業式には落第された子弟の父兄が酒の勢で學校に談判に來たものであるが之は連絡機關がない爲であるとして手宮教育懇談會といふものを組織したが之は全道に好影響を齎らし各方面より感謝され規則書の請求等があつたといふ

同志會の設立は卅二年區制が布かれたとき山谷氏は大きな仕事をするには一人の力では不可能で團體の力を必要とするとて手宮の鎭臺(?)と言はれてゐる鈴木市次郎氏に建策し同志會を組織し活躍をした是が政治的或は組合的に言ふ何々會の嚆矢となつたのである

♢義勇消防は手宮といふと火事を連想するほど頻繁に大火があつたので明治四十五年水道が出來た頃水管車三臺とホース廿四本を購入し義勇消防を設けたのである時の飯田所長は大いに感謝したのであつた

遊郭は發展策として出願し指定されたが當時凾館遊郭が焼失しそれ等が小樽に移轉しやうと交渉に來たが地代で不調に終つたのは殷賑上残念であつたといふ

此外手宮驛の設置道路開墾等種々あるが手宮公園の栗の木は移植であるか原生林であるか不明であるのは遺憾である公園にすべく多少伐木もしたが烏の巣としてその糞のため枯死させる災害より救つたのは何よりである等々四時間余にわたり詳述して研究家に大なる資料を與へて十一時過ぎ閉會した

~小樽今昔ものがたり(下)より