すこ~し、繫がってきました

2016年06月10日

四十年誌小樽市の進歩発展とその輪郭の概況

及び手宮方面発展の見聞記

 これより編者が、明治二十九年以来、市内を散歩して見たり聞いたりのままを、記憶より引っ張り出して、急進的発展の実情を摘発し、ことに編者は手宮方面に居住せるをもって、その方面の状態は常に目撃しつつ、記憶にもいささか存しやすきにつき、かなり詳細に書きつらねてみたいと思います。

 まず編者が小樽に移住したのは、明治二十九年四月でありました。その頃は戸数は六千五百戸余(あまり)、人口三万人余(あまり)なりと称し、小樽外(ほか)七郡郡役所(ぐんやくしょ)が、今の双葉女学校のところに、木造建ての貧弱的役所構えであって、郡長は金田吉郎殿で、小樽はその管轄の下に支配されておったのでありますが、小樽だけは選挙による総代理人を出し、町費などの諮問会議を開き、総ての行政事(ぎょうせいごと)をおこなっておったようであります。その時の町費はいかなる標準であったか知らねども、当時編者のごとき普通借家(二間(にけん)半に五間(ごけん))住まいの者の戸別割り一期分、三十一戦銭五厘、地方税の戸数割り一期分二十五銭の徴税(ちょうぜい)切符を受けたのである。

 その時の総代理人は、慥(たしか)に学者的の高野源之助氏、老練的なる渡辺兵四郎氏、謹厳的の本間賢次郎氏、堅実的な石田直次郎氏、弁論的なる甲埼金次郎氏、商略的の堀井音次朗氏、直進的なる村住三右衛門氏、義侠的な鈴木市次郎氏の諸氏くらいであったかと思います。その選挙法は適当の個所に、投票場を設けたれも、選挙などを意とせざる者多かったとみえて、さらに出かけてくる者がないから、手宮方面の如(ごと)きは、往来人を捕まえて、印形を持参せしめ、強いて記名調印の投票をなさしめ、五票か八票くらいで、当選なりとしたのである。而(しこう)して総代理人になると、役所より会議日に、馬車で迎いに来たくらいであった。

 学校は量徳小学校、色内小学校、手宮裏学校(色内の分校なりという)の三校(注一)しかなかったように思います。寺院は龍徳寺、西別院、量徳寺、天上寺、直行寺、正法寺、浄応寺が、目についたくらいで、そのほか見当たらなかったが、神社は住吉神社、手宮の稲荷神社、龍宮神社、水天宮、このほか奥沢に天満宮があると聞くくらいでありました。

 公園は花園公園ができかかっていたばかりで、手宮公園の如きは媒田山と称しておりましたが、何事を語るのであるか考えがつきせなんだが(つきませんでしたが)、後に聞けば汽車の煙で煤の山というのであるとのこと、これには恐れ入った啊啊。

‐p5~7‐

 

 

IMG_5355小樽外七郡役所がこの辺りに

IMG_5340おたる案内人 小樽観光大学認定 検定試験公式テキストブックより

IMG_5401小樽公園

 明治33年(1900)に開設された小樽公園(花園公園)は、将来の市街化を見越し、公園を都市の中心的な空間とする明確な目的を以て計画されたもっとも初期の例であり、日本の公園創生期の特徴を今に伝えている。

 設計は日本初の職業的公園設計家、長岡安平(1842‐1925)である。……。

~(社)日本造園学会北海道支部 作成より

 

『確か、手宮公園も同じ設計家が作ったはずです。

そういえば、鈴木市次郎宅があったはず、村住家も…。』