古代文字の碑

2016年11月06日

IMG_5758=所在・手宮町=

 小樽市の北部 かつてはニシンの千石場所として栄えた高島に通ずる舗装道路に、おおいかぶさるように迫つた岩くつの壁面一体に文字とも彫刻ともわからないシルシがきざみこまれてある。今は風化でボロボロになり、その正体は發切と見極められなくなつたので、写真のような銅製ブロンズ(中の五一作)で模写して保存している。大正10年、史跡天然記念物に指定されたこの古代文字は慶応2年、神奈川県小田原から出かせぎに来ていた長兵衛という石工が、建設用の石材掘出し作業中、洞くつの奥で発見したものだ。

建に長い人体のような、鳥のような、ケモノのようなこの彫刻は、内外の考古学者の注視を浴び、論争の的ともなつたが、いまだに文字とも絵とも定説が出されていないナゾの古代文字である。しかし、そのなかでただ一人だけ解読(?)した人がいる。その人は文学博士中目覚氏、大正2年、この古代文字は古代トルコ文字を応用したマツカツ(鞐鞨)語であり、文意は「―我部下をひきい―大海を渡り―戦い―このどうけつに入りたり―」と解釈した。朝鮮南岸、敦賀、黒竜江に近く、風向、潮流の関係から大陸との交流が十分考えられるという人文地理の観点からジンギスカンの大遠征軍にも似た古代民族の渡海を想像させる海洋ロマンスの花を咲かせた。

 これに対し札幌神宮宮司でアイヌ研究家だつた白野長運翁が「明治7、8年、開拓使の土木技師であつた人がどうけつで雨宿りした際、部下の一人が岩壁に落書きしたものだ」と語り、また最近では、長年北大で助教授をしたアイヌ研究家金田一京助博士が、天皇に「あれは偽作でございます」と説明して小樽つ子に恨まれたなどのにぎやかなエピソードもある。考古学の権威、故鳥井竜蔵博士は大正2年に「ニセ物ではないと思う」といい、さらに、「絵でもなく石器時代の彫刻でもなく、もう少し進んだ人間の手になつたもので、日本の奈良朝の前あたりで、言葉はツングース語だと考えられる」と古代文字であることをほのめかした、が解読はしなかつた。

 小樽の人たちにとつては、たとえ一部の学者からニセ物呼ばわりされようとも〝大軍をひきいて大海を渡つてきた〟古代民族の雄大なロマンを刻み込んだ史跡であると信じこみ、郷土の誇りにしているのである。

~小樽 石碑と銅像

昭和36年3月15日発行より

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img_1656中に入ると

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img_1665これは

img_1666ここ?

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『張碓から手宮まで。船?』