港・今昔物語【1】

2016年08月06日

活躍した日本郵船

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 その昔、穂足内と呼ばれオタルナイとなり、小樽と呼称されるようになった港オタルは、まず松前人によって拓かれた。次いで加賀の人々がはぐくみ、最後に越中、越後衆が稔り多い収穫をあげた。

 太平洋に「菱垣廻船」や「樽前船」が活やくした幕末文政時代、日本海は「北前船」の独断場であった。北陸と松前を結んだこの和船が往復するころ、岩内、小樽、増毛はニシン漁業の中心地であったから、阪神、北陸地方からの産物はすべてこの「北前船」が運んだものである。 安政の頃からだんだんと漁村部落の形態を造り始めていた小樽は明治二年、札幌に開拓使が置かれてから次第に商港として栄え、遂に大正、昭和(戦前まで)の黄金時代を現出、その後今日に及んでいる。「天然ニ優勝ノ地位ヲ占メ港内水深深クシテ碇泊安全ニ、炭水ノ供給亦非常ニ便易ナリ。内外貨物集散ノ要衝ニモ当ル」

 とは山本厚三代議士がそのころの港湾協会総会で小樽港の発展を見て一席ぶった演説の一部である。

 後に苫小牧の港づくりにも貢献した道庁技師で林千秋という工学博士も

「一言にいえば本道開発を一手に背負って立つべき使命を有しており、これが小樽港の他に冠絶した誇るに足る特点なり」と述べている。

 とに角戦前までの小樽はいうところなしという無類の良港だったわけだが、いまや閑古鳥の泣く淋しい港に変貌しつつある。

 だから本州内地で国土横断高速道路が開設されるときけば、すぐ裏日本諸港と結んで物資輸送の仲継港になろうと身をのりだす。船よこい、荷物よ集まれ、と悲壮なまでの働きかけを余儀なくされているのが現在である。

 昔はよかった…と古老の懐旧談は千島、樺太領有時代にまでさかのぼるが、それよりももっと前、つまり明治初めは小樽港はこれを利用する商人が個々に港づくりに努めたものである。

 「小樽港海面埋立仮規則」が定められたのは明治十四年のこと。たとえば「埋立志願者ハ築出間数並ニ坪数ヲ詳記セル図面及ビ建築方法書ヲ添へ郡役所ヲ経本庁ヘ願出スベシ」とありまた「埋立地内ニ於テ各自ノ便宜ニ因リ搬船入場ヲ設クルコトヲ願出ル者其障害ナキ分ハ之ヲ許可スベシ」であった。

 つまり商いの都合上、どうしても船を必要とするものは一定の規則に従って各自が港を埋たてたらいい…という時代だった。

 日一日と繁栄の一途を辿る明治初期の小樽湾で商人たちがここぞと思う海岸をせっせと埋めている光景が思い描かれるが、なんといっても小樽が貿易港としての決定的な地位を占めるようになったのは日本郵船の進出によるものだった。 

 「北海道における日本郵船小史」によれば、」その前身郵便汽船三菱会社がオタルに支店を開いたのは明治十一年である。いまの博物館は日本郵船支店の建物だったが、この中欧風ゴシック様式の建築物が出現したのは、ずっと後代の明治三十九年秋のことである。

 「なにせ満足に鉄道のなかった時代ですから、すべて船で物資を運んだものです。郵船の黄金時代でもあったのでしょう。」

 とは現郵船運輸倉庫の原常務が語るNYK独断場のよき時代でもある。こうして郵船を中心に板谷、犬上藤山などの船成金が日清、日露、第一次欧州大戦などの戦争を背景として現出した。小樽港が生んだ海のラッキーボーイはその後続々と誕生してゆくことになる。

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『NYKって日本郵船株式会社の略?』

南樽市場から新南樽市場へ向かう途中⁉

IMG_0423落ちてました

IMG_0424左の自動車が止まっている辺りに

玉ねぎはパトカーとともに去って行きました。

小樽警察署 0134-27-0110 です。

 

『そういえば、去年の夏、この左側の駐車場で携帯電話を拾って交番に届けたんだよな。そしたら今年の春、自分の携帯を失くしてしまったんだ。ということは、来年の春は…。』