小樽に於ける商人の出現と各種商業の変遷(ニ)

2017年01月05日

一 はしがき

 明治以前の所謂運上屋時代には、運上屋自体が豊富な資力で、独占的に漁獲した鰊や鮭の製品を、自己の所有する千石船(弁財船)に積んで、北陸一体の港や、関門、四国、尾の道、兵庫、大阪、名古屋まで輸送して此れを売り捌き、帰へり船には、漁業用資材や、味噌、雑貨、太物類を満載して漁民に此れを鬻いだ。即ち運上屋が漁業と商業を兼業する立場に在ったのである。尤も其他にも小規模ながら鰊製品を漁師から買入れて此れを東北、北陸方面へ売捌き、その見返へりとして生活物資を移入していた商人が幾らかあったが、真の商人たちが現れたのは、維新後運上屋が廃され、自由漁業が許された以後として見做して宜かろう。道内に一時に多数の漁業家が現れて、その製品が地理的に恵まれた小樽に集散するや、此れを取扱う海産商が誕生し、此等商人が広く販路を内地方面に求め、一躍して、小樽に鰊、鮭、鱒、鱈製品等の中心地として本州各都市にその名を轟かしたのである。