小樽に於ける商人の出現と各種商業の変遷(五)

2017年01月14日

二 漁業家の繁栄期と鰊漁

 高島町史に依れば、『祝津海岸僅か数百間の間に於て明治初年から建網業者として興亡するもの四十数名』とあって、鰊漁の盛況と併せてこの為産を投じたものの少なからぬ事を物語っている。此れと同業、熊臼、朝里、勝納方面にも数々の漁業家が建場を連ねて、年々好漁を続けていた。然し小樽港内は、明治十三年幌内手宮間の鉄道の起点となり、二十二年特別輸出港に指定、三十年から開始された第一、第二防波堤は大正十年完成、又屡々行われた港内埋立工事、運河の設置等に依て小樽港は漸く近代港湾化され、最早や漁業基地としての価値を失い、隣接する漁村も次第にその影響を受けざるを得なくなった。

 然し当時の漁業家は、連年の鰊大漁で何れも巨利を占め、その生活も世人の羨望の的であった。一ヶ年の中、春三月から五月にかけて、僅か数日間の豊漁に依て巨万の利益を挙げた漁師は、昔の大名の様な豪盛を極め、近海の大漁業家は何れも小樽に支店又は別宅を構え、漁期以外は殆ど遊んで暮らしていたので、自然その日常生活も遊惰に流れがちであったのは当然の事であった。