小樽に於ける商人の出現と各種商業の変遷(六)

2017年01月15日

二 漁業家の繁栄期と鰊漁

 明治の末のまだ小樽市内に明るい電灯の普及しない、町行く人も提灯で路を照らして歩く頃でも、此等の人々の邸宅の座敷にはガス灯が煌々と輝き、毎夜の様に互に招き合って饗応する習慣の漁業家夫妻は、海産商や仲買人を交えて連夜の宴を張り、数々の馴染の老妓を侍らし、宴が終った後、さらに一同客馬車を連ねて魁陽亭や一二三楼に繰り込んで、盃を傾けるのがいつもの例であった。そしてその頃東京大名題の歌舞伎が開演して居れば座頭や若手俳優を宴席に招き、又東京大角力がかかって居れば四五人の関取を聘して多額の祝儀を弾んだ。

 こうした生活も、鰊漁の盛大な中は、湯水の様に散じた金銭も、亦翌年の春になれば、再び懐中に戻って来るので、大して苦もなかったが、鰊の群れが次第に近海から遠ざかって北上し凶漁を託つ年が多くなると、漁業資金の借入にも不自由になり始めた。その一方こうした親達の生活振を幼い頃から朝夕見聞きしている後継者は、自然に不良化し、自力で生きる気力も薄く、次ぎから次ぎと没落の底へ墜って行くのであった。

 漁業家の資金は、運上屋時代には自家の資金に依て総べてを賄っていた。彼等は自家船で漁獲物を本州に売り又必要物資を移入し常に豊富な資金を運用した。又自由漁業時代になると、富力ある漁師は初めは大体自己資金で賄っていたが、建場が増えて来ると資金が不足してその資金を道内銀行の拓銀、道銀、百十三銀行等の外北陸の十二銀行、日本商業銀行や、三井銀行等の支店から融通を受けた。然し小漁師はその製品を担保として海産商や町の金融業者から仕込を受けるものが多く、又仲間が資金を出し合って企業をする場合も少なくなかった。(歩方と称した)