港・今昔物語【3】

2016年08月14日

変貌する倉庫群

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 バイパスロードに結びつく臨港道道戦の開設が確定して開運、有幌、港町の一部は大きく立退き箇所の図線が引かれてしまった。このうちの有幌町こそは小樽倉庫群発祥の地域なのだ。時移り月が変わって百年の星霜がすぎれば、かつての由緒ある土地も崩壊し消失してしまう。変遷する歴史がもたらす宿命とでもいうものだろう。

 明治初期の船は帆船がほとんどだったから、入り江とみれば錨を下して荷役をくり返したが入舟川川尻が船だまりだった。従って船だまりに近い有幌地区が貨物保管所として、格好の土地とされたわけ。このころの倉庫はほとんど自家倉庫で、いわゆる営業倉庫が初めて生まれたのは明治二十八年のことである。

 資本金五万円の小樽倉庫株式会社で創立発起人は西出孫左衛門や西谷庄八ら八人で、この会社は一年後にいまの小樽倉庫の山本信爾社長の祖父に当る山本久右衛門の経営に移っている。この小樽倉庫がきっかけで広海倉庫、高橋倉庫、藤山倉庫などが続々と並んだ。 

 このころの倉庫は保管より貯蔵が肝心な役割だったから盗難、火災から守るため頑丈な石蔵が要求され出入口もせいぜい大八車か荷馬車が通れるくらいの小さなものであった。明治三十二年には小樽倉庫業組合が設立され、その二年前に保税倉庫法が施行された。

 大正十年には業者の数二三二一八棟、七三九九〇㎡にのび、東京以北随一の倉庫坪数と設備を誇った。堀込式か岸壁式で大もめにもめて小樽政界を二つに割った運河が漸く実現したのは大正十二年、第一期工事が完成した途端に、倉庫群は次第に有幌町から南浜、北浜町方面に移行して建つようになった。

 運河にひかれてはいってきた物資満載の艀から浜人足の肩にのって軒を並べた倉庫のなかに袋詰めの物資が山積みされた。人足すなわち港湾労働者は、マンボとりと称して一回一回艀と陸地にさし渡した橋板を通るときに木札を受けわたしして労賃のバロメーターとしたものである。

 現今の港湾荷役は一にも二にも機械化が強調され要求される。フォークリフトがはしり、移動クレーンンが重機材をつりあげる。大道倉庫(吉村社長)や北日本倉庫運輸(田畑社長)の新しいサイロ形式倉庫は、バラ物を敏速に受け入れる新しい方の倉庫としてデビューした。ニューマティック・ボムベヤー方式は、従来の船内荷役を大きく変える役割を果たしている。

 札樽バイパスが通じ、臨港道道線が開設される小樽臨港地帯の倉庫群は、さらに大きく変貌することになろう。

 小樽倉庫協会はいま菅原(二葉倉庫運輸)浜野(渋沢倉庫小樽支店)両副会長を頭に、新しい倉庫業界への曲り角にさしかかっている小樽港湾に占める倉庫業者の動きは大きく、同協会加盟二十社のあり方は、港勢の盛衰を左右するといっても過言であるまい。

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