港・今昔物語【4】

2016年08月16日

‶樺太景気〟でわく

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 吹けば飛ぶよな将棋の歩でも敵地に入れば金に成る「成金」ナリキンのことばはここから生まれたという。日清、日露の戦いで一躍世界のスターダムにのしあがった日本は大正三年の第一次世界大戦で思わぬボロ儲けにあずかり歩(フ)から金になった。国も一等国になったが商人もまたみな財を築いた。にわか分限者がどっとでたが特に雑穀とニシンを一挙に扱って莫大もなく儲けたものに小豆将軍の異名をとった高橋直治がいる。赤いダイヤと黄色いダイヤで、文字通りの成金になったのである。

 このころの小樽には見番七つで芸者の数は二百九十余名。南廓には十六軒の妓楼に百五十名の娼妓、北廓も二十一軒、百四十名を数えて札束を腰巻きにねじこんだ親方、ヤン衆、仲買人、番頭どんに丁稚どんまでが花柳の巷に溢れたものだった。有名な藤山海運の開祖要吉は総トン数九七〇八㌧級の船を六、七隻ももっていたのもこの時代である。

 昭和の現代では雑穀取り引きのメッカは十勝地方の帯広に移行してしまい、かつての小樽の堺町界隈のにぎわいは影もとどめていない。いまその堺町、港町附近は札樽バイパスロードに結ぶ道道臨港線を開設するため大通りに顔を向け、尻を岸壁にまわしている商社、倉庫、工場がみな立ち退きを余儀なくされる運命にある。時代の推移とはいえ、なんでもかんでも新しいものに衣替えして古き時代を偲ぶものが消失してしまうのは惜しいことだとつぶやく古老の声も時折り聞かれる。

 日露戦争で獲得した南樺太の出現で小樽はますます繁栄の一途を辿ることになる。いわゆる「樺太景気」の恩恵でサガレン成金がふえた。木材王増田久五郎もその一人で山の上町は海陽亭の上に当時としてはハイカラな邸宅を構えて増田御殿と呼ばれたものである。

 「小樽港運二十年史」によれば「当時の港湾運送業者ハ東京及ビ神戸ヨリノ出先会社モアツタガ、ソノ多クハ個人経営ニヨル地元業者デ、中ニハ明治時代カラ孜孜営営ト数代二亘リ、家業ヲ引キ継イデキタ老舗モ数店社アツタ。ソノ業態ハ概ネ船内荷役業デ沖仲仕ト呼バレテイタ。コノ他ニ艀運送業、沿岸荷役業(陸仲仕ト荷捌業)及ビ筏運送業ノ四業種ニ分レルガ、コレラガサラニ専業、兼業ナドニ分レテ極メテ複雑ナ業態ニアツタ」とある。

 小樽港が今日でも横割り制度が主になっていて種々複雑な業界ラインが交錯してステべ企業の合理化が一番むずかしい港といわれるのもこうした歴史的背景があるからだ。

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