小樽に於ける商人の出現と各種商業の変遷(七)

2017年01月17日

二 漁業家の繁栄期と鰊漁

 随て凶作に依て鰊漁業家が次第に衰退するにつれて、拓銀、道銀等もっとも本道と縁故の深い銀行は、道庁の道産業育成の方針に従ってそれまでに多額の資金が固定して、大に窮する結果となった。茲に於て昭和の初め、本道西海岸の有力な鰊漁業家の中の有力者で且つ知識階級でもあった、金子元三郎(貴族院議員)、利礼に漁場を持つ山本厚三(小樽選出代議士)、余市の今善作、浜益の本間隆佶、古平の山口金治、厚田の佐藤栄五郎等が相寄って、鰊企業の合理的大同団結を計り、その利益を保全しようとした。その案として道内個々の鰊場に対して各自がばらばらに多額の資金を投ずる事を廃し、最も優秀な毎年相当の漁を実現している数十ヶ所の場所を選定し、材料、漁夫、資金を投入して合理的な経営を行なおうとするものであった。此れに対して北海道庁水産課や拓銀が参劃し、屡々協議を重ね、又幾度か中止の危機に臨みつつ遂に昭和六年十二月資本金三百七十万円で、社長金子元三郎、専務田中丸祐厚(三菱)、常務井上外幾雄(拓銀旭川支店長)、取締役山本厚三、本間隆佶、山口金治、佐藤栄五郎等で、鰊合同株式会社が設立された。