港・今昔物語【5】

2016年08月17日

銀行続々と進出

IMG_0369いまの港内は船影も少ない

 第一銀行小樽支店が抜きうちに「閉鎖」を宣言して地元関係者を憤慨させたのはついこの間のこと。利用者グループの「明星会」代表(木村商工会議所会頭)らが東京本社までいっての交渉も無駄だった。一店また一店、かって北海道のウォール街とまでうたわれた小樽色内町の金融街は、次第にさびしい光景に変わりつつある。

 小樽に初めて銀行が出現したのは明治十二年のことで、三井、第四十四、第六十七銀行支店だったという。続いて明治十六年二月には函館山田銀行支店(この銀行は短期間で引揚げた)行く十七年には第三十三銀行、同二十年には第二十銀行と続々銀行が進出してきた。ちょうど昭和三十年ころから札幌駅前通り界隈に内地銀行や生命保険会社が、雨後の筍のように勢揃いしたと同じ現象である。 

 本道開発計画がすすみ北海道庁、開発局の組む予算が何百億円となく建設業者に流れこんでゆく。銀行マンがこれを見のがすわけがない。同じように明治の昔勝納川尻の前浜には北陸、関西、九州に送りこまれる道内からの山のような物資が集荷されており、これを運ぶ和船が何十隻となく碇泊して船員景気でにぎわっていたから、金融業者が目をつけ始めたのは当然のことであった。

 まして日清戦争で日本が大勝利をえて好況を迎え、商業港湾都市としての小樽の発展は、すさまじい速度で広がっていったから、銀行はさらに百十三、屯田日本商業とふえていった。この年には日本銀行の派出所も色内に開かれている。このころの銀行員は、当節のホワイトカラー・スタイルではなく和服に角帯、前だれがけでソロバンをはじいていたものだ。

 日本銀行を除くと前に挙げた各内地銀行は余り長続きせず一、二年で引揚げている。拓銀の小樽支店はずっと遅く、明治三十四年十一月に店を開いた。もっとも本店は三十一年に「北海道拓殖銀行法」発布と同時に創設されているから、支店開設も後になったのは当然だ。

 日露戦争が終ると南樺太が日本のものとなり、小樽港はサガレンへの仲継港となって膨張、加えて大正時代になると雑穀、澱粉、木材の欧米向け輸出が盛況をきわめ、小樽を中心とする商取り引きは最盛の黄金時代をむかえ、銀行はみな堂々たる建物を競ったものだ。無尻外套の尻をはしょって「売ったァ」「買ったァ」と威勢よく叫びながら、店から店を気狂いのように走り回る仲買い人の群れ、黒木綿の筒砲袖というスタイルの和服に、、白チリメンのヘコ帯をぐるぐるまきつけて無尻外套に下駄ばきの若い衆は、ひと目でそれとわかる鰊のヤン衆である。豆選り女工でも金の指輪をはめた時代。札束が舞い、銀行の窓口はどこの支店もにぎわった。夢のような一時代前の小樽の風景であった。

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