港・今昔物語【6】

2016年08月18日

海で儲けた豪商

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 港あっての小樽とよくいわれる。港湾に生き海で稼いで巨万の富を得た数々の豪商の名は今なお小樽郷土史の頁を少なからず埋めている。

 睡眠時間四時間‶暁天ニ星ヲ戴ク〟働きもの板谷宮吉は後に海運王の名をほしいままにした。板谷家はいま三代目だが、日清、日露、第一次世界大戦と確実に十年おきに勃発した戦争が札束の山を積みあげたといってよかろう。留萌本線にある藤山駅の駅名は藤山海運の創始者要吉がこの駅近くの一帯に農場や牧場を拓いたので後の鉄道が通ったときその名をつけたものだ。

 藤山海運も板谷商船と並んで小樽海運史を飾った企業だがほかに醸造、漁業、農業、保険、倉庫、銀行とゼニの儲かる仕事ならなんでも投資した。だが残念ながらよき後継者に恵まれず藤山家は要吉一代をはなやかに浮かびあがらせただけで昭和の今日は命脈を断ってしまった。 

 北海道初の貴族院議員は函館の大金持ち相馬哲平だが彼の退陣の後、補欠選挙で国会に乗りこんだのがご存知犬上慶五郎。彼は第一次大戦の船景気で豪商の名を冠せられたラッキーな男である。松前は福山の出身後に沼ノ端~苗穂間の国鉄千歳線をひいたが、これにまつわる汚職に連座「汚職の船成金・貴族ならぬ貴族院議員」と新聞に叩かれたこともあった。

 以上は船を動かして設けた人たち。次に臨港倉庫を造ったり回漕業を営んでガッチリ蓄財した人たちも少なくない。木村円吉(二代目)、山本厚三、稲積豊次郎、西谷庄八、麻里英三、中谷宇吉、浜名甚五郎らがそれである。小樽市史第二巻の第六節海運の頁に

「…こうして小樽港は樺太への重要な門戸の役割をにない〝小樽港の盛衰を握るものは樺太である〟といわれたほどに両者の関係は深く第一次世界大戦以後さらに一層密接になっていった」

 とある。回漕業やら艀業倉庫業に運送業と小樽港に根を下ろして儲けるにいいだけ儲けた人々は土地や山林など不動産をしこたま手にいれて文字通りの財閥となった。 戦後二十三年、小樽港は太平洋経済に依存する現在では裏側にひっそくする形となり、ましてドル箱樺太や千島を失ったいまとなっては、どうもがいてみても昔の繁栄をとり戻すことは少々無理だろうといわれている。

 三代木村円吉氏(現会議所会頭)は本州内地に太平洋岸都市と日本海側都市を結ぶ国土横断道路ができるから小樽港と裏日本三港の富山、新潟、舞鶴を会場で結ぶと太平洋回りの航路より近くなるとして大いに宣伝これ努めていらっしゃる。果たしてこの名案通りにことが運ぶかどうか。地下の豪商連はなんとみているか。

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