港・今昔物語【7】

2016年08月19日

黒ダイヤの山々

IMG_0371接岸船は小型ばかり

 過日、小樽では明治初期に小樽を基点として活躍した機関車〝義経〟と〝静〟の再開式がおこなわれた。神戸からはるばる運ばれてきた〝義経〟号は実に五十七年ぶりに本道のレールを走ったわけ。潮祭り行事の一つとしての企画ではあったがかわいげな義経、静に扮した幼児の踊りという演出も含めてこの催しものは多くの見物人を集めた。

 〝義経〟が走りだしたのは明治十三年十一月二十八日で手宮~札幌間を往復した。云うまでもなくこの鉄道開通は幌内の石炭を小樽の手宮桟橋から積み出すために敷かれたものであったがやがてレールは奥地へと延び、それまで海上輸送だけに依存していた本道交通はしだいに内陸にひらけていった。第一号は〝義経〟号だったが次々とはいってきた米国H・K・ポーター社製もモーガル機関車は弁慶、比羅夫、光圀、信弘、静と名づけられて開拓時代の北海道をばく進したものだ。

 やがて度重なる戦争が日本に好景気をもたらし、樺太や千島がわが国の領土となって小樽は文字通り湧きにわく開港場として繁栄の一途を辿った。黒いダイヤは続々山から掘り出されて小樽港頭に集積した。国鉄築港ローダーは夜に日にをついでごう音をとどろかせながら石炭を船積みしたものである。試験勉強で徹夜のガリ勉にはげむ高商生は寮の一室で「トランスポーターも唸っているオレも頑張らなくては…」と眠い目をこすったという。いわば国鉄築港ローダーの音は小樽港の鼓動ともいえた。

 ところが昨今のローダーはガラあきでその貯炭量も僅かに六万㌧台。積み出し量も昨年同期の六十%とまるでふるわない。ふるわぬ理由ははっきりしている三菱鉱業小樽営業所が苫小牧に移り、住友が留萌重点主義をうちだし国鉄用品庫の石炭積み出しは室蘭へ変わってしまった。いま道内炭の移出は苫小牧に移ってしまった。室蘭程のダメージはないまでもかつて義経、弁慶をわざわざアメリカから運んで走らせなければまらなかった上向きの時代とはあまりにも違いすぎる今日になってしまった。

 明治のころガスマントルの光を文明のあかりとみたてて大広間を照らした老舗〝海陽亭〟にも山もとからの石炭業者や地元の扱い業者が集まって大いに酒杯を傾けたものだが、戦後櫛の歯が欠けるように大手評者の出先機関は札幌へ移ってゆき、地元の北炭さえ小樽を去ってから何年にもなる。

 今年の積みだしプランによるとローダー百二十五万㌧、北荷八十四万㌧、住友六十万㌧、三井四十九万㌧、雄別八万㌧、合計二百一万㌧となっているが、このところの動きではいささかそれさえも危なかしいという。小樽港関係者のなかには「さっさと石炭に見切りをつけて広大な国鉄用地を他に転用したら…」と性急な意見もないではない。だが石炭船の出入りが他に有形無形の恩恵をもたらしていることも現実。やはり黒いダイヤにも「明治は遠くなりにけり」の言葉が通じそうだ。

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