港・今昔物語【9】

2016年08月21日

憲政、政友で対立

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 戦後北海道から誕生した大臣は平塚常次郎、南条徳男、篠田弘作、松浦周太郎などだ。松浦は今年の米価審議に当たってベトコン部隊と呼ばれる生産者価格アップ推進母体のリーダーでもあった。彼を除くと他の三人はみな港湾都市の出身である。大臣にならぬまでも苫小牧の西田信一はいまや同港の実力者として大変な権力をふるっている。西田の顔色をうかがう苫小牧や室蘭の浜関係業者は、陰では「くたばれ西田」と極言するものさえいる。

 さて戦前では本道からは大臣は一人もでていない。候補として名のあがったものは木下成太郎、東武、中西六三郎くらいのものである。政治家を培養するだけの地味にいまだ乏しい本道独特の後進性が原因していたのかもしれない。このなかで区会議員、市会議員を経て金子元三郎のバックアップで衆議員に躍りでた山本厚三はその後の当選回数からゆけば当然大臣になっても不思議ではないくらいのキャリアをもっていた。しかし遂に大臣のポストを掴めむまま敗戦を迎え追放にあい、昭和二十五年の正月六十九歳でこの世を去った。バトンをうけついだのが椎熊三郎だがその三郎もいまはなく息子の正男が次期選挙に備えている。 

 さて〝ケンカ議会〟〝暁議会〟と有名な小樽市議会の例でもわかる通り小樽っ子の政治意識のボルテージの高さはまさに気狂い沙汰になるほどのこともしばしば。小樽港水面埋立をめぐって数年間の対立がつづいて小樽政界を二分した事件は小樽市史数頁を飾っている。このころの金子元三郎対寺田省帰の選挙戦もその前の運河式埋立てにきまった港湾築設のいきさつが尾をひいていたわけで憲政会と政友会の対立は市民の間にもひろがり、どこの誰某の店は憲政会だから絶対にものは買わぬとか、誰某のせがれは政友の息がかかっているから仲よくしてはだめだぞと娘にまでブレーキをかける親父もいたなど、大変なにらみあいであった。

 いまなお小樽政界は保守系のなかでこのムードをうけついでおり、箕輪派と椎名派という二つの流れがあることは否めない。椎熊系とは立憲同志会ー憲政会ー立憲民主党ー進歩党ー民主党の一連の系譜を守ってきた人たちを指す。これほどのイガみあいで作られた運河もいまはほとんど使用に耐えぬドブと化してしまいメタンガスの悪臭を放ってカラスやウミネコがエサをあさる場所になった。臨港道々線がのびてくればこの運河を埋めることになるかも知れぬという話もあるし、艀だまりがなくなるから埋め立てはしまいという声もある。いずれにしても札樽港築設の話さえでている今日このごろ、小樽の存在さえも種々取沙汰されるようになったのだから運河の帰すうなど問題ではないのかもしれない。

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