港・今昔物語【10】

2016年08月24日

多い北陸出身者

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 小樽、舞鶴、富山、新潟の四商工会議所会頭が連携して裏日本海上ルートを結ぶ。そして太平洋ベルト地帯の生産品を本土横断高速道路経由で小樽港に直接陸揚げしようとの構想がいま着々具体化しつつある。大いに期待できる明るい話題だ。そしてここに歴史の流れの不思議ともいいたい繰り返し現象を我々は痛感する。百年前に小樽をめざした多くの本州内地人の大部分が裏日本一円の出身者だったことにわれわれは気づくのである。

 明治十四年の小樽大火をきっかけに乗りこんできたのは富山県砺波郡福岡出身のスハラ弥平司である。この人の養子が旧姓酒井の寿原外吉。弥平司の弟に猪之吉と重太郎がいて猪之吉の息子が戦後市長も勤めた英太郎であり、重太郎の養子が石川県大聖寺出身の九郎だ。マルヨノグチの野口喜一郎の父吉次郎も石川県河北郡花園村二日市うまれ、野口家の人脈は吉次郎を扇の要として縦横にひろがった。いわばこれが北の誉コンツエルンだ。吉次郎の弟が西尾長次郎でそのむすこが長平だ、もう一人いる堀末治だ。

 海運王となった板谷家の始祖初代宮吉は越後国刈羽郡宮川村の出身で以下二代宮吉こと真吉、三代宮吉こと真満と系脈がつづいている。この初代宮吉の姉板谷フサが新谷喜作と結婚して生まれたのが専太郎でそのせがれが現新谷篤太郎である。赤いダイヤで有名をはせた小豆将軍高橋直治はやはり越後国刈羽郡石地村出身なら旧姓平沢厚三が養子となって山本家の人々となったがその養父三代山本久右衛門こと渡辺辰五郎は新潟県三島郡の生まれである。米の京坂与三郎も開墾企業家として名をなした沼田喜三郎もともに越中は東砺波郡の出で与三郎は東山見村、喜三郎は新西村の出身。初代区長金子元三郎も福山在住が長かったがもともと新潟県三島郡寺泊町からでた人。

 このようにみてくると豪雪の裏日本地帯から厳寒の北海道に渡ってきて営々として家財を築き長くノレンを子々孫々にまで伝えた一家はいずれも越後、越中、越前の働きものが多いという一事にわれわれはひとつの流れをみることができる。いずれも郷土のろう習からとびだしフロンティア精神を発揮して未知の土地に挑戦した驚嘆すべきバイタリティを感じる。一世紀の時間がすぎた今日父の国母の出身地ともいえるその裏日本一帯の各都市に呼びかけて今後手をとりあって表日本の過密現象解消の一翼をになおうと動き出した経済提携のありかたは変遷する歴史の流れがどこかでひと昔前と同じ時点に合流したような感さえある。やはり北海道のことに小樽と新潟、石川県の脈絡は地理的にも人脈の上からも隔絶することない太い絆によって堅く結びついているようだ。

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