小樽に於ける商人の出現と各種商業の変遷(十六)

2018年05月17日

三 海産商の盛況と鰊不漁の影響

一『関東大震災の年の大正十一年、北見は貝柱が大漁でどんどん小樽へ委托に積んで来ました。内地の相場は電報も電話も不通で解らない、函館のスルメ相場もストップ状態で、貝柱の相場も小樽で三十五円であったものが十円も安くなった。そのうち神戸の商社から現金は余り無いがいくら位品物が入手出来るかと照会が来たので、半分は現金払で二百函位売ったのが神戸で百二十円に売れた。平常一函精々二円か三円の儲けであったのが、大震災のお蔭で一函二十円も儲かったので夢の様でした。』

一『昭和七年の三月から四月にかけて、鰊の大漁がありましたが、その後  四月十日頃小樽郡丈けで大小混みの鰊の大漁で値段も一函五十銭足らずだったので、漁師は争って此の安い鰊を身欠に掛けましたが、こんな小鰊は見込がないと見て買わなかったのですがこれが幸でそれから後毎日の雨続きで身欠に掛けたのが腐り、結局肥料に落したり、海へ投げたりした。

一『右の様に、内地からの引合に対して右左り多少の口銭で取り次げば安全だが、何うしても投機心が動いて、先づ売って置いて船積までの期間に安い相場を見て買うか、或はその反対に買ったものの相場の上げを見て高く売るという方法をとるので、それが逆に来ると一敗地にまみれる結果になる訳です。』

一『その思惑する数量も粕何千石、数の子何百俵と大量の数を投機するので数万円の巨利を得る反面、再起出来難い程の損失を招く者も多く、それ丈け海産商の興亡も劇しかった。』