小樽出身のジャズ歌手・ナンシー梅木

2016年09月19日

芸能界の小樽人は…

 小樽出身で芸能界に名を成した人は、「涙の渡り鳥」などでヒット曲を出した歌手の小林千代子(戦後はオペラ歌手として小林伸江と改名)歌劇の水の江多喜子、女優の草島競子、映画監督の小林正樹、伊丹十三の奥さんであり女優の宮本信子、藤純子の二代目といわれた藤浩子(のちに宏子と改名)、歌手の木之内みどり、ゆかりとしては小学校の一時期を小樽で過した石原裕次郎、こまどり姉妹などが知られているが、戦後のジャズ界でトップを走りМL賞を受賞。またアメリカ映画に出演しては、日本人として初のアカデミー賞(助演女優賞)を受賞した小樽出身者がいる。その人の名はナンシー梅木である。

ナンシー梅木

 ナンシー梅木は本名が梅木美代志。昭和4年小樽生まれで、稲穂西4丁目(現在の稲穂3丁目)にあった梅木鉄工所の娘さんである。

 現在はないが、緑町にあった小樽緑ヶ丘高等女学校を卒業。戦後はいち早く毛利昭子さん(毛利病院夫人)から本格的な英語を学んだ。その後、上京してジャズ歌手をめざし米軍基地のステージに立ち、実力を身につけると共にNHKのラジオやナイトクラブに出演してその名を高めた。そして当時ジャズ歌手だったペギー葉山と人気を二分するようになった。

ジャズブームの発端をつくる

 特に、ナンシー梅木が熱狂的な人気を博したのは、昭和25年2月の日劇公演「ゲイ・セプテットショー」であった。このステージが以後の日本におけるジャズブームの発端になったといわれている。

 同年8月には、渡辺弘とスター・ダスターズのステージでも満員の観客を沸かせた。その専属歌手のメンバーは、ナンシー梅木、ペギー葉山、富樫貞子、青山ヨシオ、笈田敏夫であった。

 昭和28年には、シックス・ジョーズ、シックス・レモンズ、ジョージ川口とビックフォー、ミッドナイト・サンズ、池田操とリズム・キング、オールスター・シニヤなどの一流バンドをバックにナンシー梅木は歌った。

 また、ゲイ・クインテット(コンテ、キーコ、与田輝雄、ジョージ川口、吉葉恒雄)やNHK、ビクターの専属としても活躍した。

 スイング・ジャーナル読者人気投票は昭和26年からスタートしたが、このうち女性ボーカルだけを紹介すると(1位から5位まで発表されたが、紙面の関係でここでは3位までを記す)、昭和26、27年1位ナンシー梅木、2位加藤礼子、3位水島早苗。同28年1位ナンシー梅木2位ペギー葉山、3位新倉美子、同29・30年1位江利チエミ、2位ナンシー梅木、3位ペギー葉山と記録されているのをみても、その人気と実力がうかがわれると思う。

 曲としては「哀愁の一夜」「夜のささやき」「その人の名は言えない」「Ⅰm’ waiting for you, Sleepy my love」などがある。

ナンシー梅木渡米する

 秋吉敏子が渡米する1年前の昭和30年7月にナンシー梅木はアメリカに渡りテレビに出演している。

 アメリカ映画「サヨナラ」に出演し、アカデミー助演女優賞を獲得したことは次号で詳しく紹介するが、そのあと共演のレッド・バトンズと結婚したと聞いている。そして、ミュージカル「フラワー・ドラムソング」にも出演し、活躍をつづけた。

 日本ではナンシー梅木の渡米後は、スイング・ジャーナル人気投票には、丸山清子、マーサー三宅、弘田三枝子、沢たまき、笠井紀美子、雪村いづみ、中本まり、しばたはつみ…などの歌手が女性ボーカルの上位ランクに登場している。

 昭和52年、私は歌手の藤山一郎さんを千歳空港に出迎えたことがあった。小樽までの車中でいろいろな話をしたが「小樽出身のナンシー梅木は、ハスキー歌手の第1号なんですと」と藤山さんは私に話してくれた。

 ある人は「ナンシー梅木はドリス・デイとパティ・ペイジの声を折半したようだ」と言っている。

 生前の毛利昭子さんは、ナンシー梅木の渡米後にもアメリカへ行っているが、帰国した後に「梅木さんがあの声で一流歌手に成れるとは終戦当時は思えなかった」と私に話してくれたこともあった。

 かつて、ルイ・アームストロングは「ジャズはその人そのものだ」と述べているが、その意味でも郷土小樽にとって、世界に通用したこのナンシー梅木も記録に残したい一人だと私は思っている。

(次号に続く)

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~小樽市史軟解 第1巻 岩坂 桂二

月刊ラブおたる 平成元年5月~3年10月号連載より

img_0843現在の稲穂3丁目は

cimg1965三角市場から

CIMG0043中央卸売市場

CIMG0046中央市場にかけての辺り