個性的表現のあったもの『高架桟橋とトランスポーター』

2016年11月14日

 今はその姿はないが、明治時代につくられたスケールの大きなものの一つに手宮の高架桟橋(こうかさんばし)があり、昭和に入ってからは、築港にトランスポーターという石炭積出施設があった。

 高架桟橋は、手宮駅構内の北端にあったが、次項写真のものは、明治44年につくられたものである。はじめは鉄道が開通した明治13年につくられている。

 石炭船積作業概史(小樽築港駅発行)と、北海道鉄道百年史(国鉄北海道総局発行)によってその要旨をみると『明治13年につくられた桟橋は、長さ400メートル、先端部は幅12メートル、海面上の高さ2.5メートルの木造であった。

 明治39年に鉄道国有を契機とし、すでに老朽化したこの桟橋を替えるため、鉄道院(鉄道局の前身)の施工によって明治44年12月に石炭専用の高架桟橋が築造されたのである。

 総工費43万5000円、海上部分のながさ289メートル(290メートルという記録もある)、幅21メートル、海面上高さ18メートルという巨大な木造桟橋で、6000トン級の汽船を両側に横づけすることができた。

 海中の侵蝕被害防止のため、クレオソートを注入した道産のトド松やエゾ松を使用しているが、コレラは砂川駅付近と石狩川左岸の鉄道用地内に防腐工場を新設してつくられたものである。

 大正、昭和初期に生まれた人が子供のころは、よくこの辺で泳いだり、桟橋の下を潜ってカキという貝をとった思い出があることだろう。ここは貝の宝庫でもあったのだ。

 小樽の子供たちは、昔からスキーが上手であったことは有名であるが、日本海の荒波で育っただけあって泳ぎも上手であり、加えて潜ることがうまいのはこの桟橋で鍛えたからだと思う。

 この高架桟橋は石炭積出しの主役を明治、大正、昭和とになってきたのである。

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 「大正15年に鉄道省は築港に海陸連絡設備の設置計画を立案し、操車場や連絡設備を含め、総予算700万円をもって昭和8年に着工。昭和11年11月に第1期計画分が竣工した。

 何回も試運転を続け、待望の石炭積出試運転は昭和11年12月、荒田商会の糸崎丸によって行われた。

 そして昭和12年4月より本格的に石炭積出作業が開始され、第2期工事も昭和15年2月に完工された。

 当時、この近代的なシステムによるローダー・トランスポーターは小樽港に一段とその威容を誇り、市民の目をみはらせたものである。

 手宮の高架桟橋と共に、このトランスポーターは、形自体が一つの機能美をも、兼備えていたので、絵を描く人たちや写真家の心をとらえ、多くの作品が生み出されている。

 規模の大きなこの二つの施設は、その役割と使命を終えて小樽港から姿を消していったのである。

 今の若い人たちには、その作品や写真をみた時「これは何なの」と聞かれると思うが、説明して語り継いでほしい。

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~小樽市史軟解 第1巻 岩坂桂二

月刊ラブおたる 平成元年5月~3年10月号連載より

 

 そして、ケーソンが…。

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