「小樽出身の中村伸郎」

2016年10月07日

昨年はこのHISTORY PLAZAで、小樽出身の歌手の小林千代子とナンシー梅木を紹介したが、今回は同じく小樽生まれの新劇俳優、中村伸郎(なかむら・のぶお)について記してみたい。

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 中村伸郎は明治41年生まれで、家は現在の富岡1丁目9~6小樽社会保険事務所のところに、以前緑に囲まれた立派な屋敷があったことを記憶しているひともいると思うが、そこで育った。

 幼少のころ、その屋敷から浅草寺までは竹やぶであったという。そんな豊かな自然の中で兄や友だちとあそび廻ったことだろう。冬には現在の北電や警察署前の坂道で、よく竹スキーも楽しんだ。

 父は小寺芳次郎といい慶應義塾大学の第1回卒業生である。三菱汽船株式会社を経て、日本郵船株式会社に勤めていたが、明治33年に招かれて小樽銀行(後に北海道商業銀行と合併し北海道銀行となる)の頭取役となって来樽した。

 中村伸郎はこの小寺家の10人兄弟(7男、3女)の末っ子である。兄弟はみな優秀で、長男は幼少で亡くなったが、次男は日本洋画壇の重鎮として光風会、日展で活躍し、小樽洋画界の黎明期に多大な足跡を残した小寺健吉。3男は大学教授。4男は民族舞踏研究家。5男も大学教授。6男も東京美術学校を出ている。そして7男が伸郎である(姉3人は省略)。

 伸郎は、姉(長女)が嫁いだ中村家に子どもがいなかったので養子に迎えられて中村姓になったのである()。

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 このため伸郎は東京へ移り、昭和2年に東京の名門である開成中学校を卒業。美術の川端学校にも通い画家の道を志した。そして昭和3年には帝展(現在の日展)に初入選している。

 その後、新劇俳優を志望し昭和7年、友田恭助、・田村秋子の劇団築地座の1期生として入団した。

 同劇団の解散後、昭和12年に杉村春子、三津田健らと共に文学座の結成に尽力。戦後もこの文学座で「マリウス」「女の一生」などにも出演した。 昭和38年、三島由紀夫の「喜びの琴」の上演拒否をキッカケに26年間在籍し、活躍した文学座を奪回。そして劇団NLT、浪漫劇場、劇団「雲」の客員を経て、昭和50年に芥川比呂志の劇団「円」に参加し、文字通り昭和の新劇史を飾った人である。

 更に、中村伸郎について特筆されることは、昭和47年から渋谷にある小劇場「ジャンジャン」で毎週1回、イヨネスコの「授業」を昭和58年までロングランを続けたことである。この功績は、昭和48年の芸術祭大賞受賞に結実されている。 

 中村伸郎に対する演技評については、『地味ながら長い俳優生活に裏打ちされた飄逸(ひょういつ)、洒脱な持ち主で定評ある人』『気品あふれる端正な容貌と柔軟な演技』『知性あふれる演技』など、多くの賛辞がおくられている。

 また、その演技力は岸田賞、紀伊国屋演技賞、同特別賞などの受賞というかたちで評価されている。

 更に学術・芸術上で顕著な実績を残した人に国から授与される紫綬褒章も受賞している。

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 中村伸郎は舞台のほかに映画やテレビにも出演している。特に小津安二郎や黒澤明監督の映画には光ったものをみせてくれた。昭和36年、小津監督の「秋日和」で中村伸郎はアジア映画祭最優秀助演賞も受賞している。

 テレビドラマでも、裁判長の役などで存在感のある演技をみせて多くの人々の心をとらえたのである。

 私は学生時代、演劇部と映画研究部員であったが、そのころから中村伸郎は理想の人であった。物を見つめる深さと、審美的心はこの人の俳句にも表れている。今から9年前になるが中村伸郎から手紙をいただいたことがある。その中に「生涯をいつも六日のあやめかな」という句が詠われていた。私はこの句が好きで額装し自分の部屋に飾っている。

 中村伸郎が小樽生まれであることは、郷土小樽の誇りでもある。

 いつまでも元気でいてほしい……。

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img_0905中村伸郎の句(自筆)

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~小樽市史軟解 第1巻 岩坂 桂二

月刊ラブおたる 平成元年5月~3年10月号連載より

 

※ どちらは本当なのだろう?

 

img_0956この坂で竹スキーを楽しんだようです