ニシン漁家列伝 小樽関係抜粋 高島場所①

2017年09月20日

 高島場所といわれたのは、現在小樽市に編入されている、色内(いろない)、手宮、高島、祝津(しゅくつし)の四村を指している。色内と手宮は都市化が進み変貌してしまったが、祝津は、往時のおもかげを止め、昭和二十〇年代までは、鰊漁も続けられていた。

 高島場所は、はじめ松前藩士蠣崎嘉蔵の知行地(商場)であった。場所の請負は、寛文七年(一六六七)近江商人の住吉屋西川伝右衛門が請負ったのが始まりで、以後明治初年に請負制度が廃されるまで、西川家が引継いだ。

 天明年間(一七八一~八八)には「タカシマに運上屋一棟、番屋三棟、(カバシララ、シクトツに各一棟)」とある。また文化二年(一八〇五)の文書には「タカシマは夷地第一の大港にして良港なり。蝦夷各地より往来して一大漁場をなす」とある。

 また、幕末期には町屋は別として、運上屋一棟、番屋および附属建物十六棟を数え、その中の一棟シュマサン番屋は、役人や警備藩士の往来に便ずるための「通行屋」を兼ねていたという。

 運上金の変遷を見ると、文政年間(一八一八~二九)一九〇両(住吉屋助治)、嘉永~安政年間(一八四七~五九)二一三両(西川徳兵衛)、慶応年間(一八六五~六七)二一三両、外に秋味など冥加金一〇一五両を徴されている(住吉屋唯兵衛)。

 請負人の経営した大網の数は、安政六年(一八五九)六統、万延元年(一八六〇)六統、文久元年~明治二年(一八六一~六九)七統で、出稼者には大網の使用は許されなかったという。

 明治三年開拓使が所轄して以来、漁民の中から建網を請願するものが続出したが、官は刺網業者との調整のため免許をひかえたために、明治七、八年頃までは増加を見ず、免許されるようになったのは、明治九年頃から後である。(山田健氏より聞きとり)

 高島場所に和人が定住しはじめたのは、安政以降のこと。移住者の多くは、「二八取」として鱈釣、鰊刺網などに従事していた。後に「高島」の御三家といわれた白鳥、茨木、青山の三家について述べれば、白鳥喜四郎は嘉永年間(一八四八~五三)、茨木与八郎は万延元年(一八六〇)、青山留吉は安政六年(一八五九)に来住し、初めは鱈釣、鰊刺網などに従事しながら資金を貯え、漁業地を借用または買収するなどして、逐次地歩をかため、鰊建網に進出し、明治十年頃から急成長をとげ、同十九年(一八八六)には三家の建網は四三統に達し、村の総数の六〇%を占めるに至った。

 網の増加の過程を表に示したが、網の増加は主として赤岩から忍路境にかけての海蝕崖が発達した岩場で、漁業地としては未開の海岸であった。そこの新開が進んだのは、枠網を導入して漁獲物を本拠地の前浜まで、曳航して沖揚することが可能となったためである。

 高島の著名な漁業家としては「北海道立志編」(明治三六)に茨木与八郎、兵頭市之丞、白鳥栄作、猪俣忠司の四名、「小樽外七郡案内」に、南弥太郎、寺田大吉の両名、「開道五十年記念」、「漁家番附」(大正七)には、白鳥喜四郎(栄作)、青山留吉(民治)、茨木与八郎、南弥太郎の諸氏が見える。昭和六年の鰊定置漁業権数は六二ヶ統、漁業家数は二三人であった。詳細を「附表3」に示した。

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