ニシン漁家列伝 小樽関係抜粋 小樽内場所②

2017年01月09日

内田 甚八・末作 小樽市熊碓(現桜)

 甚八は福山(松前)生れ。安政年間に熊碓に出稼し、小樽の将来性をみこして、そのまま熊碓に定住した。明治に入ってからは、建網に着手し、嗣子末作のときは、熊碓の前浜に一統、張碓に二統、一時は祝津に一統、対岸の厚田に一統の計五統、その他石狩で鱒網を経営していた。厚田の漁場はルーランにあり「追鰊場所」としていた。

 内田家には「追鰊」の経歴がある。明治期に一時熊碓の前浜の漁が不振となったことがある。内田末作はその対策として天塩の初山別へ追鰊を計画した。枠船・起し船・磯船の船団を編成し、大船頭以下二〇名の若者が乗組んで、二泊三日で、熊碓~初山別間海路四九里(一九八㎞)を一気に帆走して、三日目の昼すぎには現地に着いた。沿岸は鰊の大群が群来(くき)ていた。網を錨建で建て込むと、すかさず乗網、枠を廻して二五〇石を漁獲、直ぐに沖揚が始まり、翌日も同じ作業をくりかえして、目標の五〇〇石を漁獲して、鰊粕に製造し、製品を現地で売却し、成果を収めて熊碓に凱旋した。翌年末作は、足をさらに北に伸ばして、天塩遠別に追鰊しているが、その後は前浜の漁況も回復して、追鰊を必要としなくなった。

 この体験は昭和に入って、再び役立って、凶漁の危機を乗り越えている。昭和五年は後志一帯皆無という大凶漁となった。末作は厚田(ルーラン)に追鰊して大漁し、漁獲物を運搬船二隻に分載して熊碓に陸揚して浜を賑した。(出典:鰊場物語。内田末作、聞き取り)

 昭和六年、内田末作は熊碓一統、張碓二統、厚田一統の計四統を保有していた。合同漁業(株)の設立に際しては、アツタの一統を現物出資して一三六株を取得し、同社の株主となった。

 内田五郎は末作の嗣子末造の第五子で、戦後も鰊建網を経営しているから、内田家の鰊漁業の経営は四代に跨る。

 末造の長子一夫は、北大水産専門部を卒業後、創立早々の合同漁業(株)に入社した。

 天売事業区長当時、初山別・遠別の同社休業漁場に追鰊して成果を収めている。合同漁業(株)は「追鰊の方法」を経営に導入し、漁夫団を後志漁場と浜益以北の奥漁場と組み合せて、漁況の変転に備え、「機動運営」と称したが、これには内田家の追鰊の体験が大いに参考とされた。

img_1122

img_1123

img_1295初山別の海

img_1287花田番屋