ドン

2020年06月21日

 大正三年発行の小樽区史編さん者渡辺義顕が『区民の決起をうながす』件として三十項ばかりあげた中に『天狗山に雄大な公園をつくり、頂上に望楼をもうけて公衆の観覧に供するべし』とか『公設便所をふやして立小便を防止』『大規模のホテルをつくり遠来の旅客を慰安すべし』『小学校の授業料全廃』といったのがある。半世紀まえの意見だが、果たして進展したか。

 区史はまた、それぞれのフロンティアもたたえる。たとえば水難救済事業をひろめた若桑久吉、マッチ軸木の移出をはじめた工藤要助、この人は稲穂町の私有地石山を寄付して北防波堤工事を早めた。また四十歳以上の小樽人なら思い出すはずの正午の‶ドン〟。これにつかった大砲は日露戦争の戦利品で、打ち出す場所は緑町木村円吉邸の裏山であった。創設者は公園通りの中央にあった遊園館という旅館経営の阿部寅之助で、明治三十九年からはじめ、のちに孤児院に寄付してその維持費を得さした。昭和十二年廃止。

 十勝集治監の看守であった川島寅次郎が手宮で鯉を飼いはじめたのは明治三十年、のち長橋にうつる。牛乳屋のトップは石川県人荒川市松、製麵業は鳥取県人西本幸吉、床屋では庄内藩の武士であった藤嶺久吉、表具師は花園町の石丸啓蔵、浴場は小樽湯主人後藤文五郎、かれは風呂釜の改良に成功している。錨製作元祖が乙崎太吉、掛物菓子づくりの先人は浜田六三郎。肉屋では秋田の人関源治郎が妙見町に開店すれば、三重県人草薙専太郎は明治二十六年に来樽して最初牛鍋飲食店、のち牛を飼って肉専門店経営。外国船に食料品を供給する一方、通訳を業とした川辺徳三郎、これは明治三十六年である。

 みなそれぞれ大志をいだいて小樽にわたり、成功をめざして各人各様の案出と努力であった。

 このれい明期小樽の叙勲のハシリが石橋彦三郎。大正二年である。勲記は『資性実直、つとに来道し正油醸造業を苦心経営、改良をかさねて発達につとめ、かつ同業者をして組合を組織せしめ、さらに上川郡雨紛原野と夕張郡角田村の未墾地をひらき、率先して畑地を水田に改造し、今や米産地としてその名を高めるにいたる。また寺院を設立し、学校を建築して小作人をたすけるウンヌン』

 まえにも書いたが、この石橋のところで杜氏(とうじ)をやっていた野口吉次郎と西尾長次郎の兄弟が〝北の誉〟の源流となる。野口家は喜一郎につづく誠一郎、正二郎。西尾家は長平さらに長光の代になっているが、喜一郎と樽中動機でマルヨ支配人となった保知末治(元参議)は合同酒精に転じ、さらに嫁の実家の札幌西尾の発展に協力している。また今春野口正二郎が合同の社長になっているが、兄誠一郎は北の誉香蘭社長。マルヨ野口の社長は野口直吉。

 長身の野口喜一郎は八十一歳、健在。このほど教え子らの招待で二十五年ぶりに来樽した元小樽高商米人教師マッキンノンと昔ばなしを語り合っている。二人は古い友人。なお樽中(現潮陵高)は明治三十五年の開校で、野口らは一期生である。

 古いはなしでは小樽病院の創設が大正元年、関野国治が院長でスタート。そのころの開業医では三谷清長(三谷病院)毛利孝(毛利肛門病院)谷井鶴吉(小樽耳鼻)本仙太郎(小樽産科)小笠原辰治(小笠原医院)などの名がなつかしい。

 港に眼を転じよう。いま第二ふ頭に穀物用のサイロが十六本建っている。一本の高さ三十㍍直径七㍍で、小樽港に運ばれる雑穀類年間三十五万㌧を岸壁の船から直接コンベヤーで入れる仕組み。この仲仕なかせの新メカニズム、大同倉庫が二億四千万円で工事中。同倉庫社長は小樽ッ子吉村弘之助。小樽倉庫協会会長は館林滋(北日本倉庫)同業、明治出の木村円吉はごぞんじ樽商会頭。ほかに田畑義人、山本信爾など。小樽の近代化はやはり進んでいた。

img_1130カット 阿部貞夫 さしえ 伊東将矢

~北海道人国記 小樽編 奥田二郎

北海タイムス昭和42年9月5日より

小樽三谷病院    東宮殿下行啓記念北海道写真帖 小樽関係抜粋 明治44年発行 東京図案印刷(株)編より