中央バス

2016年10月31日

 小樽市に本社を置き、全道的にも優秀会社として、且又バス会社として全国的にも優秀収益率を上げ、郷土の為に万丈の気を吐いているのが北海道中央バス株式会社である。略して中央バスという。路線免許キロ二二一三(昭和43・3)運行キロ九二四三(昭和42)運行区域は後志、石狩、空知の本道中央部の三支庁管内を始めとして胆振、上川、留萌支庁管内の一部にも達し、その運行地域の広大なること、及び路線延長の長さに於いて本道第一位を占めている。而かもこの地域は道内に於いて最も人口密度高く産業的にも観光的にも恵まれている。 

 近頃私バス業界では労使の主張が嚙み合わないからと云って、矢鱈とストが起こる。一番迷惑を蒙るのは乗用客で、いつも江戸の仇を長崎で討たれっ放しである。洵に筋の通らぬ話だ。この点中央バスは見上げた見識である。何でも賃上げは全道各バス会社の交渉がまとまってから、その最高より高い額を支給することにしているという。儲かる会社はやることが違う。 

 中央バスが大きくなったのは第二次大戦中の企業合同による。即ち戦争が漸次苛烈になるに従い、昭和十七年十月道庁は「北海道に於ける旅客自動車運輸事業統合要綱」を発表し、これに基いて後志、石狩、空知地区のバス業者二十一社が統合し、十八年三月に北海道中央乗合自動車株式会社が発足した。小樽市街自動車株式会社が始終統合のイニシアテイブをとり、新会社の本社を小樽市に、杉江仙次郎社長が新合同会社の社長に就任した。

 そもそも小樽に於けるバスの始まりは大正九年四月創立の小樽乗合自動車合資会社で、稲穂町東七丁目に本社があり、車体を青色に塗ったフォード五台で、「青バス」と呼ばれ、若松町ー第一花園大通ー手宮間を走った。これに対し翌年稲穂町西七丁目に小樽市街自動車株式会社が設立され、フォード八台を茶褐色に塗ってデヴューした。世人これを「赤バス」と呼んだ。これは奥沢口から花園第二大通りまでの間を走った。これについて僕に思出がある。父の店は當時ライジングサンの石油を売っていたので「赤バス」に油を使ってもらうために、他の油との効率試験をやってもらった。つまり一定量の油で如何程の距離を走行するかという試験だ。笹田先代と父と僕が乗込み、、若松町開運町の一区画の同じところを一定量の油で何回廻れるかという試験だ。郊外でも走るのなら気分もよいが、街の中の同じところをグルグル廻るので、終いには倦々してしまった。この勝負どの油に軍配が揚ったか覚えていない。

 この二バス会社は猛烈な競争で、客の奪い合い、乗務員同士のこぜり合い、運転士の引抜き、、政争にまで発展し、両社とも引合わなくなって、大正十二年歩み寄って合併と相成った。新会社名は小樽市街自動車株式会社、本社及び営業所を稲穂町東二丁目に置いた。

 又昭和六年僕の叔父中木伊三郎が余市小樽間の路線許可を得て、小樽効外自動車株式会社を創立した。(稲穂町西六丁目)車体を銀色に塗ったので「銀バス」と呼ばれ、仲々スマートだった。翌年小樽市街自動車も小樽塩谷間に路線を延ばし、大競争となった。海水浴シーズンには鈴なりの大混雑だったが、或年満員の銀バスが色内川筋を走っていた際入口にたっていた警官が振り落とされて殉職し、銀バスも大枚の弔慰金を出したりして、余りいいことがなかった。

 三年間で営業権を譲り廃業した。

 昭和二十四年北海道中央バス株式会社と社名を改めた。杉江社長は二十八年十二月十六日病没し、後事を友人松川嘉太郎氏に託した。翌年一月松川社長の実現となったがこの頃が最も苦境であった。これを打開したのは松川社長の一大功績である。昭和三十二年の東急乗取りのピンチも切抜けた。

 松川社長も効成り名遂げ、盟友の二代目現社長杉江猛氏にポストを引渡した幕切れは美談として伝えられよう。(北海道中央バス二十五年史参考)

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おたるむかしむかし 下巻 越崎宗一

月刊おたる 昭和39年7月創刊号~51年12月号連載より