三馬、製缶、歌碑の時代

2016年11月04日

運河モンチャク

 文学碑というのが、やたらハヤっている。いまに国中歌碑でいっぱいになるのではないか。

 一番多いのは啄木で、行かなかったところにも建っている。小樽の手宮公園にも新しいのがある。小林多喜二のは旭展望台にあるし、地元出の脚本の八田尚之のが祝津鰊御殿下にある。

 朝里不動尊境内には有名な並木凡平の「廃船のーー」があるし、小田観蛍のは天狗山麓にある。金児杜鵑花の句碑‶み仏や滝のしぶきや百合の花〟も朝里川温泉元湯。大正10年に建っているから、戦後派ではない。本物の俳人である。

 長谷虎杖子のは銭函、比良暮雪は最上公園というぐあいだが、小樽に来た文学人は啄木、野口雨情、幸田露伴、長田幹彦、武林夢想庵、中江兆民など。小樽人は岡田三郎、小林多喜二、伊藤整、夏堀正元らで、「歌うことなき声の荒さよ」と啄木がけなした小樽人だって、それほど見下げたものではない。

神社の親せき?

 問題になった運河は、小樽港をつくった道庁技師・広井勇の「ハシケで一々、荷を運ぶより運河をつくった方が合理的だ」という意見を入れて大正に入って九年がかりでつくったものだが、最初から「それは時代おくれだ」という反対論もあり、埋立論も昭和40年代にはじまっている。

 この運河と石造倉庫は関連ぶかく、倉庫第一号の小樽倉庫の米林栄夫専務は、実用面より歴史的な意味を述べている。

 それはさておき、建設当時スゴい威容を誇った小樽製缶の運河沿いの建物はいまや古色蒼然のボロボロ。これは大正10年北洋漁業の缶詰工場として発足。昭和8年製缶八社の合同で東洋製缶の小樽工場として、東京水産卆の堀越一三社長の指揮下にカニ缶ばかりかミルクやアスパラなどの缶詰もつくっていた。

 材料のブリキは、八幡製缶傘下の東洋鋼材の八割を占めるご繁昌だったが、戦後派その技術を生かすダンボールづくりのトーモクが生まれ、小樽高商出の手取貞夫という‶企業秀才〟を世に出した。

 三馬ゴムは世の荒波にいったん沈んだが、大正8年センイ業の中村利三郎がゴム工業の発展をもくろんではじめたもので、合羽やソーセージの皮を最初に作っていた。

 一方、三代の吉村伝次郎は富山県戸出村出身で、デッチ小僧から叩き上げ、昭和33年に妹背牛を経て小樽に雑貨商を経営。これが昭和13年企業合同で生まれた三和ゴムの専務。同18年三馬、同19年軍需省の要請で横浜ゴムと組んだ北斗ゴムの常務を兼任し、戦後、三馬と北斗の合併で社長となった。

 しかし、ゴム、皮革の輸入過剰がきて、ゴム企業は軒並みダウン。‶それに火事(昭和37年)に遭ってピンチに立ったが新鋭機の導入と合理化で切り抜けた。その間、早大のスポーツ万能選手の巨漢である二代目が、三十歳(昭和24年)で社長を継いで奮戦悪戦の一筋だった。わりと早くに他界するが、三馬がもたらした小樽経済への波及効果は大きかった。

声の荒い運転手

 住吉神社境内に銅像が建っている中央バス社長当時の松川嘉太郎は、富山県人で武生中学を出てから単身小樽にやってきて、大正元年小樽砂糖雑貨組合に入り、大正18年組合長、昭和28年中央バスに関連し、同29年社長となって中央バスの繁栄をみちびく。

 このあいだ札幌で中央バスにのり、まちがって札樽高速とわかって運転手にたのんでおろしてもらったが、このときの運転手は私を睨みつけて地獄の鬼みたいな顔で怒鳴り、渋々おろしてくれた。

 中央バスも一方でサービスうんぬんを説いているが、こんな運ちゃんがいては信用ガタおちになるのではないかと、副知事から中央バス入りした中川利若くんに苦情をのべておく。時期はこの春、場所は手稲の高速に入る入口のところ、運ちゃんは五十近い男だった。

 で松川さん、大正14年に商工会議所に入り、戦後は会頭になって幾多の会社の立直しをやって、小樽政財界の大ボスななるのだが、気性のはげしい一方で、友情にも厚いことで有名だった。バスは、戦時統制で大きくまとまったのをそのままいただいた中央バスがトクした。松川は徹した自由党系の自民党びいき。

 小樽の政友と民政党のケンカさわぎは年中のことだったが、戦中は翼賛会で一本に統一、反するものは選挙に出られなかったので、ナアナアでやっていた。しかし、戦後はまた自由党と民主党(進歩党、改進党)と分かれて、昭和30年の大合併までケンカ対立がつづくが、本当に両派の意識がなくなったのは、政友も民政も知らないガキ世代が政治家になってからだ。

(「開拓の群像」より写真とイラスト)

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img_1616小樽移民休憩所

img_1621昔は、最初右上の人手こぎの船。

img_1618次は大和船で北海道へ渡って来た。

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~小樽市史軟解 見直せわが郷土史シリーズ

奥田二郎 (月刊ラブおたる39号~68号連載)より