会議所百年・小樽商人の軌跡 モンロー主義

2016年11月16日

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 ◆事業統制の証明書

 昭和19年1月8日付け證明願なるものが、59年10月刊行の『中央バス40年史』に載っている。願出人は小樽市の杉江仙次郎、「御庁ノ指導ニ依リ事業統制ノ必要上設立セルモノナルコト」を証明相成りたくが願意。杉江の肩書は北海道中央乗合自動車株式会社社長である。

 同月12日付けで「右相違ナキコトヲ証明」したのが佐藤栄作運輸通信省自動車局長。吉田茂の後継として戦後政界の長期政権を保持した。当時の首相官邸での雄姿を、首相番をした若き日の政治記者時代の思い出として一際鮮明な印象を持っている。

 佐藤の覚書が鉄道省管理局長の活字を墨で消している事は、敗戦間近か緊急事態を物語っている。戦時体制強化策として中央官庁の簡略化が進められ、鉄道省と逓信省がまとめられ運輸通信省になり、新しい書式も整わない内に進められた企業統合だった。

◆北海海運輸局も誕生

北海海運局成立も、この時期の事情を物語る。現在中央バス本社がある元道銀の建物には、敗戦直前の20年5月に創立された運輸省北海海運局が置かれた。それまでのめまぐるしい変化も中央バス誕生の時代背景を示す。

 函館海事局小樽海務署が札幌逓信管理局海事部出張所になったのが明治43年。太平洋戦争突入直前の函館海務局小樽出張所が、運輸通信省誕生に際して海運総局小樽本局に格上げされ、まもなく小樽海運局になったのは、樺太など北方対策が主眼だった。

 道央21社の統合による、資本金8億円の中央乗合自動車会社が設立されたのは18年3月。鉄道省が地方長官会議で全国のバス事業統合再編方針を説明したのが、ちょうど一年前の17年3月だった。交通圏ごとに会社を統合せよ、との閣議決定は有無をいわせぬ戦時下の政府命令だった。18年8月、全国のバスを藤鼠・藍鼠・国防の3色に塗り替えるよう、政府通達が出ている。

◆中央乗合自動車スタート

 新会社は小樽に本社、札幌と小樽に支社を置き、社長は小樽市街自動車の杉江、札樽自動車合資の加藤幸吉が専務に。札幌観江バス(村田不ニ三社長)、小樽定山渓自動車道(地崎宇三郎社長)、定山渓鉄道(金子元三郎社長)、滝川バス(中島長蔵社長)など石狩・後志・胆振・空知の道央圏各社から、建物・バスといった現物出資を受けスタートした。

 中央バスと改称したのが戦後の24年6月。中央バスの場合と似て、戦時体制下の国策統合会社が現在まで道内で健全なのは北海道電力と北海道新聞。いずれも1地域1社化の流れによって道内のシェアは初めから100%だから、経済活動は圧倒的に有利だった。

 北電は昭和17年4月配電統制令による逓信大臣命令で設立された北海道配電会社に始まる。戦後の23年に日本発送電と配電9社が集中排除法の指定を受け、電気事業再編成に北海道電力が生まれた。57年3月に立派な創立30周年記念誌『北のあかり』を発行している。

 北海道新聞は北海タイムスと小樽新聞を中核に道内11紙が集まり、17年11月1日の創刊。前年12月の勅令17号に基づく新聞事業令の公布と、17年1月の内閣告示が根拠とされ全国的に進められた1県1紙政策だが、北海道では道長官指令の形をとり道警察部特高課長も加わる設立準備委員会が具体策を作った。

◆会議所時代から続くコンビ

 初代社長杉江仙次郎は明治11年愛知生まれ。昭和4年河原直孝会頭時の副会頭から第11代会議所会頭を4期続ける。この時に副会頭としてずっと女房役を果たしたのが、2代目社長になる松川嘉太郎。杉江・松川コンビが会議所時代からの延長だったというのが興味深い。

 敗戦時の会頭だった松川については、現在でも伝えられるエピソードがある。この百年誌の主要な基礎資料にもなっている『小樽商業会議所月報』が明治30年の創刊号からそっくり残っているのは、松川会頭が占領軍から咎められたら〝全責任は自分が取る〟といって、焼却処分しなかったからだという。

◆松川伝説

 東京政経部から小樽編集部に転勤した当時、松川社長の〝小樽モンロー主義〟伝説が花盛りだった。

「小樽人の根性を示した中央バス乗っ取り粉砕」事件だ。

 40年史は「32年7月、本州系資本の経営参加申し入れを株買い占めによる会社乗っ取りと松川社長が即断、役員中心に結束強化と株主・労組に協力を求め、会社一丸になって防戦した」-と書く。

 つい最近の道新にも「あの時、もし防戦に失敗していたら」と、今でも背筋が寒くなるーという加藤新吉社長の談話が載っていた。

 全国有数の優良会社に育っていた中央バスを狙ったのは東京急行社長の後藤慶太。強引な株買い占めで〝強盗慶太〟の異名まであった人物で、定山渓鉄道を買収済み、中央バスを手に入れて北海道循環バス路線を構想していたと伝えられる。

 道内バス企業の東急系列化は、田中金脈にも顔を出した国際興業の小佐野賢治が表面に立ち、函館・早来・宗谷・北見・北紋・網走・斜里の各社を次々に攻略。

 中央バスの場合、プレミア付きの増資分を東急が引き受けるとの条件提示から始まる。これを松川が拒否して、東急が中央バス株集めに入る。

◆内地資本へ一致団結

 「小樽に本社がある会社を、むざむざと内地資本に奪われてたまるか」と小樽市民の世論に訴えると同時に、百四十円から二百円に値上がりした株を売らないよう株主に協力を求め、札幌証券取引所理事長寿原外吉ら地元経済界の支援も受ける。小樽をはじめ地元の株主は松川側に付き、株価は二百七十円まで跳ね上がったが、結局東急は2割しか手に入らず、買い占めは失敗した。

 中央バスは国家権力による上からの統合会社であり、出発時の経過から、現物出資がそのまま株券にされた部分もかなり多い、いわゆる寄合い世帯だった。私が入社したころの北海道新聞も似たような状況だったから、よく理解できる。北タイと樽新の両系統にわかれ、翌日の新聞巻取紙代金も払えなかった時もあった。

 株買占めによる乗っ取りに一番弱いのが、こうした寄合い世帯。そんな会社を小樽の人達がオラガ会社と信じて全面的に支援した、との話はにわかに信じるわけにはいかなかった。だが、東京3紙の札幌印刷に際し、労組機関紙が〝北海道の灯台を守れ〟と書いた道新専従役員の一人になって自らが体験してみて理解できた。

 中央バス株は360万株のなかで、車内重役の手持ちは3分の1.防戦に出た時既に40万株が渡っていたが、終局で110万株だった。その後の増資で220万株になっていたが、子会社の中央商事が北炭経由で買い戻している。

 東急側に同町OBも居たと言われた。バス路線の確保を断念した東急はその後、ホテル部門に進出したが、旭川東急インは今年9月に撤退すると新聞が報じた。

~小樽商工会議所百年史 執筆者 本多 貢