若林貞三

2017年06月16日

 明治から大正、昭和にかけ電話、電灯、瓦斯、ラジオ器具の専門店妙見町若林電気屋の若林貞三旦那のことを知っておられる人が大分少なくなったようだ。明治三十三年四月小樽に電話が開通した時の電話番号一番は御承知の通り名取金物店、二番は若林だった。昭和二年ラジオ機の移入宣伝に力を入れ、札幌放送局の許可番号がとれ又二番であった。

 若林は文久三年生まれ近江国神崎郡山上村の産、郷土を飛出し北海に志を立て先づ函館へ渡り、数ヶ月の後更に小樽へ落着したのが明治二十九年暮れである。彼は学問の素養はなかったが、近江商人としての商才にたけ巧言や阿諛を避け赤心を以て人と交ったので、その当時新興都市小樽へ進出してきた内地商社の幹部は若林を重用し斡旋を頼み、彼は誠心誠意これを世話し多大の信頼と交友を得た。彼には一つの道楽があった。自己の営業よりも他人のために働くという道楽であった。 

 新事業の創設、起業家の来損を歓迎し、進んでその斡旋に乗出し、これが引いては小樽市の発展に寄与したのである。

 若林の生涯の大仕事は郷土の多賀神社の分社をしない中央の形勝の地水天宮山に創置したことである。小樽(古名オタルナイ)は元近江八幡の岡田、西川両家の請負場所で先人が大いに活躍した舞台であったことに因み、大正七年同郷の出身神野新平、松本菊次郎等に働きかけ、江州の官幣大社多賀神社分霊を勧請、従来の水天宮に合祀、新たに荘厳なる神殿を建設した。又東西の参道を開き、巨大なる御影石の鳥居、灯篭、狛犬などを奉献し行人の眼を驚かした。大正十一年盛大な祭典を挙行、妙見通りの芸妓連が手古舞姿で賑かに参加し小樽人をビックリさせた。然し神社新築並びに催しのための若林の寄附金集めは献身的、超人的であったようで、当時の小樽新聞の記事に本道一の寄附集めの名人は若林貞三だろう。このため店は倅夫婦に任せてしまい、朝から晩まで一口何百円という寄附金の募集にだだをこね六年間にざっと拾六万円とは何と驚くだろうと出ていた。當時確定分として県人の大口を挙げると、一万円犬上慶五郎、一千円宛石橋泰一、小堀鶴吉、奥村徳蔵、中井戸利助、七百円伊藤留三郎、五百円田中伝右ェ門、村林巳之助、小杉合名会社などの名が見える。

 大正十二年以後多賀神社の例祭は六月十五日と定められ今日に至っている。尚十二年昇格を企て基本財産を造成し、六月五日村社認定を受けるに至った。

 若林の逸話を二三伝えよう。 小樽公園の高台に忠魂碑が出来た時当事者はその撰文につき苦慮し、当代の高潔な人格者故杉浦重剛先生に白羽の矢を立てたが委嘱の手蔓に悩んだ。若林これを聞にし自ら進んで引受けた。彼は杉浦先生とは直接交誼はなかったが、有名なお伽噺の大家岩屋小波氏は江州出身で若林とは懇意な中、小波の父一六居士は同郷の杉浦先生とは肝胆相照らす間柄だったので忽ちOK、日ならずしてその執筆が届けられたという。市役所でそんな事情を知っておられる方が今いるだろうか。

 日魯漁業会社の傍系北海製缶が小樽に進出してきたのは大正十年であるが、これは市営の北浜埋立地に設立された。この埋立は小樽二大政党がケンケンガクガクやり合っただけに貸付についても区会内に難しい事情があった。若林は此チャンス逸すべからずと両狐領袖を説き区長を動かし会社重役に勤めて機熟するや一気呵成に三社を会合せしめ、疾風迅雷に決定をみたのであった。同社借地料坪一円二十銭は意外の高率でこの標準は市がその後埋立地と他へ貸す場合にこれに倣うことになり有利になった。今日製缶会社の小樽に於ける重要さを考える時若林の隠れたる功績を忘れてはなるまい。

 若林貞三は昭和四年五月八日肝臓癌で望月病院に逝いた。享年六十七才。法名釈貞専。

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~おたるむかしむかし 下巻 越崎 宗一

月刊おたる 昭和39年7月創刊号~51年12月号連載より

6月14日~16日までは水天宮祭り

水の神様 水天宮 昨日はきっちりと雨を呼びました

さすがに日中は

人出も少なく

後ろ側に

名前が

ありました

こちらにも