和船のころ

2016年11月08日

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 住吉神社の国道入口に立っている第一鳥居に寄進者広海二三郎、大家七平の名が刻まれているがこの氏名も現代小樽人には馴染薄くなっているのではなかろうか、両人共に加賀の船主で海運関係では特に小樽に繫がりのある人、鳥居は花崗岩の立派なもので日清戦役記念に寄進された。

 広海大家両家共徳川時代から和船の持主で幕末から明治にかけて幾度もの和船を大坂に冬囲いし、なるになると大阪瀬戸内の諸港から太物、金物、瀬戸物、鮭、木綿、素麺、黒糖、三盆白、酢、畳表、塩類を積み下関を廻って日本海を北上し敦賀で漁場用繩莚を積み新潟酒田へ寄ってコメ、鮭、白玉などを積んで北海道へ向った。維新後西海岸の中心地小樽が日の出の勢いで発展してくると主として小樽へやってきたこの和船(一二〇〇……一五〇〇石積位)を特に北前船(きたまえ)といい雇船頭をのせたが二三郎も七平も自ら乗込んでやってきたことも再々あった。この両家の他に多くの北前船が小樽に入港しマストは林立していた。この積荷は廻船問屋が販売を斡旋し又帰り荷物には鰊製品など海産物を積んだ。廻船問屋は船頭を泊め積荷の世話をして口銭を得た。広海大家の船頭衆は堺町塩田問屋の店を常宿としていた。

 帰り荷の海産物は電報などで内地各地の相場なぞ照会し主として瀬戸内海各地で売り渡した最後に大阪に陸揚げし船を囲って船頭や水夫達は故郷へ帰ったのである。 

 然し両家共、明治二十年の頃から時勢を察し和船の他に帆船更に汽船を買入れ、三十年頃に広海は堺町に大家は南浜町(現大阪商船支店の場所)に支店を設け海陸物産の売買業を始むるに至った。

 広海は日清戦役に際し所有汽船一万屯を御用船に供し日露役には二万二千屯を供した。大家も日露戦役には持船を御用船に提供しノルウェー汽船ブランド号を借入して本邦沿岸の航海に従事した。

 両家共後に倉庫業をも兼営し小樽経済界発展のため寄与するところ多かった。

 

 明治の末から大正へかけて私のまだ少年時代の頃である。

 入船川がまだ暗渠にならぬ前に川は船入澗に注いでいた。こんな思い出がある。或る時大雨が降って入舟川の上流にあった養魚池の土手が破れ沢山の金魚が川に流れ出て下ったが、船入澗は海水なので川口にウヨウヨしていた。これを見付けた子供や大人が、たもやざるを持ち出して大騒ぎで争って捕まえたことがあった。

 船入澗は有幌側を港町側から石組みの破堤が突き出ていて有幌側の袂に二階建の小さな水上警察署交番があった。平沢大暲がまだ中学生時代によくこの辺りでキャンパスを立てて海の写生をしていた。

 船入澗には石狩、浜益、厚田や古平、美国、積丹方面からやってくる川崎船と称する小型和船が船掛りしていた。汐風で鍛えられた頑丈な赤銅色の船頭衆が無地筒砲のサクリを着て厚皮の鞄を抱えて陸へ上ってきた。私の店は澗に近い港町にあったので船頭がよくやってきた。店では店頭ではなく奥の間へ招じ入れ大きな囲炉裏裡の上座へ座らせた。船頭は鞄の中から徐ろに得意先から預かってきたお金を不器用な手つきで数えて渡し、注文の品々を読み上げると番頭はいちいち注文庁へ書き留めた。これら船頭周波お得意先の代理者であり且貨物の運送者であったので、どこの店でもたいせつにしたのである。

 商談が済むとお燗した徳利が出され手料理の酒肴が竝べられる。酒が廻るとランプの光に汐焼けした船頭のツヤツヤした額が異様に感じられた。子供心に上機嫌で破顔大笑の船頭の話によく耳を立てて聞いたものである。

 これら川崎船は沿岸の辺ぴな地域の唯一の運輸機関だった。生活必需品も皆この船によって運ばれた。では何時頃から姿を消したのであろうか。大正の中頃にはまだ通っていた。

 風一つを頼りに帆で走る和船は海難の危険も多く漸次汽船にその席を譲らざるを得なかった。。昭和の初め頃の小樽港の写真を見ても港内に数十隻の汽船が碇泊していた。大は欧州航路の巨船から小は沿岸の小廻り船までとも角、多数賑っていたものである。

 ところが戦後様相は一変した。我々終る市民に馴染深かった藤山汽船の命令航路にとる沿岸通いの小蒸気船も姿を消し、陸路の改修発達と共に海上輸送は逐次トラック輸送にとって替られた。ただ今だに陸路の不便な浜益厚田方面へは小樽から数十屯のジーゼル船と利尻礼文へは汽船小樽丸とが小樽の問屋から物資を海上輸送しているのが昔の名残ともいうべきであろう。

~おたるむかしむかし 下巻 越崎 宗一

月刊おたる 昭和39年7月創刊号~51年12月号連載より