港湾聖人

2016年11月13日

‶わしを灯台に埋めよ〟

防波堤に寄せる伊藤の執念

 

 北海道の戦後の時代は連合軍の小樽上陸から始まるが、この米七七師団が轟音をたてて札幌へ向かった札樽国道は小樽の請け負い業者、恵比須屋半兵衛が張碓付近のカムイコタン岬の難所をきりひらいたのが開道の端緒である。安政年代の話で、半兵衛が自服をきってやったものだ。

 その後明治五年から小樽の若竹町、平磯岬、熊碓をへて銭函に通じる海岸道路がつくられ、、昭和六年には三年計画で小樽―銭函間十五㌔を幅七・五㍍の道路に仕上げる工事が進められ、三十年に工費三億二千万円で完全舗装がほどこされている。いまや快適なドライブウェー。朝里辺から連矛する晴れた小樽港は、二本の防波堤の仕切りによって、いかにも良港のたたずまいをみせる。しかしこの防波堤にこめたパイオニアたちの執念を思いかえす人は少ない。

 防波堤築設工事の功労者二人の胸像は小樽公園東山にひっそりと残されているが、『わしが死んだら防波堤の灯台にうめれくれ』といったのはその一人、伊藤長右ェ門。

 これをきいた弟子の檜山千里(川崎建設)はゾクゾクと身ぶるいしたそうだ。防波堤にかけた伊藤の執念が鬼気となってせまったのであろう。

 明治三十二年十二月二十八日におそってきた雪まじりの大シケ。工博広井勇は真夜中、銭函から荒れる海岸づたいに手宮まであえぎあえぎ歩いていった。

 牢固たる自信をもちながらも、自分が設計考案したブロックづみの北防波堤が築設途上で崩れ去るかどうか、心中神を念じながら夜のあけるまで見守ったその心底、彼も小樽の防波堤に全人生をかけた男である。

 『本港は湾形広澗に過ぎ、東風より起る波浪は高さ六尺をこえぬが西北風で起る激浪は遠く大洋よりまきおこり高島、茅柴岬をまわって港内をおそい、船舶の碇繁安全ならず、明治二十六年一月の暴風は沿岸道路、石堤、船入澗を破壊し、同年十二月の暴風激浪は碇泊の船舶を覆沈し、二十七年また損失九万円。』(小樽区史)

 というわけで、京都府知事から道庁長官に転任してきた北垣国道が内相井上馨に小樽築港の必要を説き、明治三十年から十年計画で築設工事の開始となるが、このころの入港船は年間二万隻を越し、十年前の五倍にたっしていた。

 工事は長さ十五㍍、幅と厚さが八メートル、重量八五〇㌧のケーソンをレールの上をすべらせて海上に投じていく画期的なもので、すべては政府がえらんだ広井の手腕に託された。まだ日本の土木界では外海に対するこの種の築堤工事の経験がなかったのだから、広井の苦労も大変であったろう。

 広井は札幌農学校二期生。新渡戸稲造、内村鑑三らとともにクリスチャンで、ポケット版の聖書をはなさず、自己にはきびしく、人には寛容でじつに高邁な人物だったといわれている。農学校からなぜ工博がうまれたかはのちに北大の頁でのべるが、技術の幼稚なころに、ほとんど創意工夫をもってのぞみ、日本の築港水準を欧米なみにひきあげた功績は大きい。彼のポケット版聖書は小樽博物館にのこされている。のち東大教授となるが、彼の手がけた北防波堤は明治四十一年八月に完成、ついで二代目築港所長伊藤の登場となるが、広井のエンジニアとしての良心は伊藤におくった手紙の一節『もし防波堤にいつか欠陥の生ずることがあれば一切自分の責任である』に躍如としてしめされている。

 伊藤は古武士型の剛直な人で、のち道庁港湾課長、勅任技師になるが、若いころから潜水技術をおぼえ、水中から防波堤のすべてをしらべあげていた。昭和十年に南防波堤をしあげたあと勅任技師になってからも小樽築港事務所長を兼務してゆずらず、さいごまで責任をまっとうしている。敗戦を知らず昭和十四年歿。

 防波堤内外、初秋の波浪はいまなお無心である。

img_1798カット 阿部 貞夫

さしえ 伊東 将矢

~北海道人国記 小樽編 奥田 二郎 

北海タイムス

昭和42年8月20日(日曜日)より

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