明治十六年の小樽(上)

2020年06月10日

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 永井町に商工会館が開館した折、僕は秘蔵の今村三峰筆「北海道札幌圏後志国小樽高島両郡港湾絵図」と題する版画を寄贈した。今でも同館玄関すぐ脇に掲げてある。

 この絵図は明治十六年に水天宮山の港町崖上辺りから見た小樽鳥瞰図で北は赤岩山茅島岬から南は張碓カモイコタンにおよび対岸と奥石狩厚田雄冬岬を望んでいる。

 汐見台には開拓使時代からあった小樽病院の入院患者病舎があった。小樽医師の草分け佐藤玄悦先生もこの病舎の前に住んでおられた。(玄悦先生の碑は現在竜徳寺境内に在る)

 この絵図には旧小樽方面の町名汐見台、高砂、真栄、土場、新富、芝居、新地、若竹、金曇、竜徳、勝内、信香、開運などすべて明示されている。

 信香町の大三店、郵便局が載っている。大三店は山田吉兵ェの先代兵蔵が安政三年永住御免となるや早速く開店して日用雑貨を販売したものでいわば小樽商店の草分けである。

 郵便局は八忠船樹忠三郎が明治五年自宅に開局したもので当時は半分は店になり『近江屋、八忠、籠鍋』など紺に白抜きの暖簾(のれん)がかけられ店頭に雑貨がならべられていた。忠三郎は三年六月小樽郡大年寄に任命帯刀を許され同時に小樽高島忍路郡の触頭を命ぜられた名望家だった。十四年名を忠郎と改めた。(後港町局の所に移り三代に亘り局長をつとめた)

 十四年五月旧小樽十一ヶ町五百六十余戸が大火で全焼、新地金曇の高楼も一瞬にして灰燼に帰し、新たに住之江町の一区画が貸座敷地域に指定されたのであるが本絵図には新廓の南部屋、井桁三、丸立、小林、山千など一流店の名を連ねている。特に南部屋の復興には札幌県から三万円(八十数年前の三万円ですぞッ)補助せられ土台から軒先まで高さ十間の四層楼上に「南楼」の額が掲げられその豪勢さに人々は睲目した。同方面に劇場の草分け星川座芝居の名が見える。

 現在の南小樽駅方面では住吉神社通りに量徳学校、それから十四年の大火で焼けて信香から移ってきた郡役所、戸長役場が現在の双葉女子学園の位置に示されている。量徳学校のところは元量徳寺跡で墓場だった。

 十一年十月竣工し十四年には明治天皇の御名代有栖川宮熾仁親王殿下の台臨に浴した由緒ある校舎だったが惜しくも三十四年出火消失した。また郡役所の洋館というのが明治五年ドイツ人技師の設計で丸鋸挽き、角釘を用い、フロリング(サネハギ)を用いてあったという当時の小樽では最も近代的建物で郡役所になる前には鉄道工事の外人クロフォード技師宿舎に当てられ町の人は異人館と呼んでいた。 

 十四年の大火で開運町停車場が焼けたため永井町へ新たに建設された住吉停車場の名は示されており、入舟町鉄道陸橋は木橋で当時(十三年)僅か九日間で竣工され世人を驚かしたものであるというが十八年六月入舟町大火で焼け煉瓦脚と鉄橋にかけ替えられた。

 住吉駅から札幌寄り神社通り下は第二トンネルで内部は木材で構築されていた。

 駅すぐ下(元北海タイムス支局所在地)に末広座芝居があり、これは侠客鈴木吉五郎の経営だった。しかしこの劇場も三年後の十九年四月染屋の火事で類焼しガードの西側角入舟町通りに東向きで新設された。

 入舟町川筋(今は暗渠になっている)で示されているのは大三店支店、北水湯、丁カギ旅籠屋で大三山田吉兵ェは十八年には信香から入舟町へ住居を移した。下って山上町への登り口左角(現フジヤ商事会社)に山田銀行とあり、本店は凾館大町で越前の富商山田又佐の設立にかかり小樽支店は十六年二月に設けられ、佐々木孝養先代や野口小吉が行員、倉橋大介が支配人だったが十二年で引き揚げた、倉橋は後郵船会社支店長となりさらに二十七年小樽電灯舎を創立し、取引所理事長をつとめたり、小樽実業界の大物となった。

~おたるむかしむかし 下巻 越崎 宗一

月刊おたる 昭和39年7月創刊号~51年12月号連載より