市制になったころの小樽(その1) 41

2020年06月06日

 今年の小樽は市制70周年を迎えて多彩な記念行事が開催されている。本誌の「歴史への誘い」のコーナーでもその貴重な写真が紹介されたが、今回は別な角度から70年前を振り返ってみたい。

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 おれは河原の枯すすき

 同じお前も枯すすき

 どうせ二人はこの世では

 花の咲かない枯すすき

 

 この歌は大正10年につくられた「船頭小唄」である。作詞が野口雨情、作曲が中山晋平で、中山歌子が唄っているが、「枯すすき」と俗称されて、大正11年、12年と続いて全国に広まった。 

 また、小樽が区制から市制になった大正11年には、「流浪の旅」や「ピエロの唄」がつくられた。

 今は使われていない言葉だが、カフェでは、白いエプロン姿のホステスさん(以前は女九給さんと呼ばれていた)が好んでこれらの歌を唄ったが、曲に共通していることは何かやるせない哀調が伝わってくるようだ。

 当時、活動写真といわれていた映画もそのころ「不如帰」「想夫憐」「金色夜叉」などの三大悲劇ものが小樽でも上映されて人々の涙をさそった。

 何故なのか、それにはそれなりの時代背景があったと思われる。このころは第一次世界大戦による好景気も去り、日本全国に不況の波が押し寄せ、政治を含めてかげりをみせはじめていた。

 物価も値上がりしたものがあるが、平均して売上げ不振による値下げ傾向がみられた。しかし、小樽は港湾施設の拡充や、工場設置などをみると勢いがあったし、民間資本も底力があった。

 世相の一面を女性の服飾を例にみると大正11年には、資生堂の化粧品部に新しく美容科、美顔科、洋装科を設けたことが影響してか、アイシャドーや髪を短くすることが流行しはじめてダンスホールはその姿でにぎわった。

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 小樽は大正11年8月1日、市制が施行されて、この日から「小樽市民」ということばが生まれた。人口は11万7953人、世帯数は2万2909であった。式典や祝賀行事は8月5日、昼夜にわたって開催された。

 当日は午前10時から住吉神社において奉告祭が擧行されている。大味市長代理、犬上、山本両院議員、渡辺兵四郎、藤山要吉、板谷順助、中谷宇吉はじめ各界の代表、校長など約350人が参加して玉串を捧げた。

 小学校児童は校長から市制実施に関する訓話を受け、3年生以上の児童は午後1時から通学区域内を旗行列した。そして市制祝賀会は午後3時より小樽公園東山で開催された。

 市内の有力者約600人が参加。お祝いの花火打ち上げの後、あいさつ、祝辞、万歳三唱……。祝宴の園遊会には芸者衆の手踊りもあり、通路には酒、おでん、アイスクリームなどの店が並んでにぎわいをみせた。

 そして午後8時30分、商業関係の全組合が参加して提灯(ちょうちん)行列が実施された。音楽隊を先頭に小樽公園を出発し、花園、稲穂、色内、堺、港、入船町を経巡し、永井、量徳町へと進み住吉神社まで万歳を三唱しながらした。

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img_0165A 大正11年ごろの公園通りで、小樽公園より水天宮方面を展望したものである。歩いている人の服装や電柱と、家々の間にある樹木の緑に興味を引く。

 

img_0163B C

写真B・Cは大正時代の花街の人であるが、髪の型と和服の調和、着こなしに感心する。

~HISTORY PLAZA 41

小樽市史軟解 第2巻 岩坂桂二

月刊ラブおたる 平成3年11月~5年10月号連載より

~2019.6.27