小樽に於ける商人の出現と各種産業の変遷(十八)

2018年05月23日

四 漁業と繩莚商との関係並に雑穀に対する需要の移行

 鰊の製品に付随する商品として繩莚がある。元来鰊は生魚の儘焼いたり煮たりして食料に供するのが一般であるが、一夜に何十万何百万尾と一度に漁獲される生鰊の腐敗を防ぐ為め、大部分のものはその儘開いて身欠に乾すか、又は釜で焚いて絞胴(しめどう)で油を採油し、その残渣を干莚の上に広げて天日に燥して鰊粕を製造する外方法がなかった。身欠鰊は貴重な食料品で、同時に採れる乾数の子は高価な珍味であった。又鰊粕は古来水稲や密柑其他の作物の肥料として欠くべからざるものとされている。

 この様な製品の乾燥用としての干莚(ほしむしろ)、又荷作用として建莚(たてむしろ)と包装用繩類の需要は莫大なものであった。勿論水産物検査の規定に依て包装用繩莚の目方や大きさは限定されていた。

 その頃の倉庫の在庫品の主なものは、鰊製品で、其後雑穀、澱粉が増加し、又包装資材の繩莚や叺類が大半を占めていた。繩莚の産地は主として東北、北陸方面で、石川、福井、富山、新潟、秋田、山形、青森県等でその種別名称も多種多様で、敦賀建莚、八幡建莚、敦賀干莚、東京裏莚、敦賀中間繩、伯州中間繩、三国中間繩其他で、小樽の繩莚商もその出身地の産物を最も得意として主に取扱ていた。