小樽に於ける商人の出現と各種商業の変遷(十九)

2018年05月27日

四 漁業と繩莚商との関係並に雑穀に対する需要の移行

 元来、繩莚類は農村方面の農家の手工品で、冬期の農閑期に此れを製作して、北海道の鰊製造の需要期の四月から六月迄に大部分完成して置く必要があった。ところが、その年の春鰊が不漁で需要が少なければ、産地や地元の繩莚が過剰になって相場が暴落する事があり、又その反対の場合は意外な暴騰を見る事も少なくなかった。此の様な相場の変動を恐れて産地では、七、八分の手当に止めて、その後の漁模様を眺めて更に生産する場合も多かったが、その年の鰊の豊凶が相場に多大な影響を与えるため、小樽の業者も産地の問屋も鋭敏に神経を働かせた。当時の小樽の取引の単位は一発一万枚で、多数の専門の仲買人が、色内町港町を歩き廻って、専門の繩莚屋の外、海産、雑穀問屋や、全く商売違いの業者の店先に出入して、半年先きの受渡期日の思惑物を売買仲立をした。一日一軒の業者で数十万枚の取引をする事も珍しくなかった。その目的は繩莚の現物でなく、相場の綾(あや)であった。従って一発の売買契約書が転々数軒を廻って相場を上下し、中間に居て数千円の利益を得たり、又損失を招いたりして、結局一種の投機商品となったのである。

 明治中期から昭和初期までに栄えた繩莚商は左の様な顔振であった。

 永山商店 山口商店 上光商店 上光商店

 辻崎商店 佐藤商店 大杉商店 上光商店

 中村商店 宮川商店 白崎商店 門倉商店

 笹田商店  (~屋号省略)

等で、就中、永山と山口はその商売高が群を抜いていた。