小樽に於ける商人の出現と各種商業の変遷(二十)

2018年06月04日

四 漁業と繩莚商との関係並に雑穀に対する需要の移行

 その後雑穀の出廻りが旺盛となり、輸出も盛大になると、雑穀包装用の叺、繩の外、青豌豆手亡豆、澱粉の輸出用麻袋、未粉用の通(かよい)袋、清粉用の中(なか)袋等が需要されると、従来繩莚等に手を出さなかった三井物産、鈴木合名、岩井商店、湯浅貿易、今井孝、丹波屋商店、井沢商店、井上宇太郎、新栄商会等が新たに進出して来た。

 麻袋は印度産の黄麻(じうと)をカルカッタで製袋したもので世界的の包装材料であった。又木綿袋は名古屋の木綿業者の製品であった、麻袋の単位は一発が一万枚で、一枚の単科は三四十銭が相場であった。神戸市場は一発が五万枚で一日数百万枚も投機的売買が行われていた。小樽でもこれに連れて先物売買が行われ、カルカッタや大連、神戸市場の相場が標準となっていた。

 三井物産や鈴木合名、岩井商店等は神戸や大連でも早くから取扱っていたし、産地の相場にも明るかったが、他の業者(繩莚)は割合不馴れなため此れを扱って損失を招いたものも多かった。佐渡の味噌問屋で佐渡産の繩莚を扱っていた、佐藤商店は堅実な老舗であったが、二代目の主人が若く新奇を好んだ人で麻袋に手を出して大損をして小樽から引揚げた。

 又、大杉商店は繩莚商の古顔であったが思惑が外れて遂に樺太の国境の敷香へ逃避し終戦後引揚げて小樽で亡くなった。

 猶他の繩莚商も鰊漁の不漁続きで商売も委縮し、一方農産物の包装材料は漸次発展して来たが、大需要家である地方農協が各都道府県購連と直結連繋して買入れる様になり業者を通じなくなってその圧迫に依て衰微して昭和の中頃には盛時の面影が失われた。

 戦後統制期に入って、北海道藁工品統制会社一本となり、全道の業者は何れも此れに参加し、小樽の門倉商事の社長飯川文三が理事長に、岡本今朝吉が専務となったが、昭和二十二年統制会社が解散後は、北藁商事株式会社と北海道藁工品卸商協同組合の複数制となり、更に組合は解散して個々の店舗を構える様になった。

 現在の業者は殆んど新顔で、僅かに白崎商店、門倉商事、加地商店等が旧業者として残っている丈けである。又麻袋商としては、今井商店、丹波屋商店、西村商店等が存続している丈けである。