小樽に於ける商人の出現と各種商業の変遷(二十一)

2018年06月09日

五 第一次大戦後雑穀商の旺盛期と衰退

 明治初期、石狩、天塩、北見、胆振方面の農産物は、大小豆が主で、夫等奥地の農産物は札幌の証人の手にかかって小樽へ運ばれ、それが小樽の海陸物産商に依て本州各府県に移出されたが、その頃大きな雑穀商は多く札幌に在った。所が明治二十五年札幌に大火があって以来、札幌の商人が疲弊した。これがたまたま此の年室蘭・夕張線の鉄道が開通し、それ以来雑穀類は小樽の商人の手を経ることが多くなった。

 明治二十三年、米穀、海産物、雑貨荒物の営業の有志七十名で小樽共商会を組織し、取締は遠藤大三郎、委員は三木七郎右衛門、塩田安蔵、高橋直治等であった。これは米・雑穀海産物諸品の現物を売買し、品位の等差、相場の標準を定めた。

 次いで明治二十七年、高橋直治外二十九名で稲穂町に株式会社組織の小樽米穀鰊肥料取引所を設立し、会頭山田吉兵衛、副会頭渡辺兵四郎、議員板谷宮吉、藤山要吉、高橋直治、榎幾太郎、塩田安蔵、西川貞次郎、広谷順吉、新谷喜作、田中武佐衛門、井尻静蔵、田口梅三郎、白鳥米作、早川両三、等で代替海産関係者が多かったが、此の頃雑穀商として活躍した者は、高橋直治、北海雑穀株式会社(中谷彦太郎)、内田長七、山崎商店、岩村徳次郎、、中村多四郎等で、取扱った農産物の種別が漸次増加して、麦類、菜豆、青豌豆、澱粉等が追加されるに随て、三井物産支店、鈴木合名支店、増田屋支店、湯浅合名支店、香村英太郎、井上安次郎、井上宇太郎、林松蔵等が現われた。就中高橋直治は上山キの商号で、小豆に最も力を入れ、常に小豆を買占めてアサリの自家専用石蔵に貯蔵し、相場の出る迄此れを抑えて市場に出さず、不作年又は内地相場の高騰を見て此れを放出し常に一挙に巨利を拍し日本の小豆王として全国的に名を馳せた。

 大正初期第一次世界大戦の後、欧州、米国の食糧欠乏に当って、道産雑穀、澱粉の大量輸出注文が入って、作付反別も激増し、雑穀商も俄かに増加し、内地商社や外人商社も進出し三十数名に上る雑穀専業の仲立人組合も組織され、往年の色内町海産商全盛時代を堺町方面に再現し、貿易小路と称する街通さえ出来る程であった。

 斯様に雑穀の輸出が俄かに盛大に趣いた大きな原因は元より海外の厖大な引合に原因する所であるが、此れが極めて円滑に取引された事は、輸出検査の制度の確立と、外国定期航路の開発に依ったものであった。