小樽に於ける商人の出現と各種商業の変遷(二十二)

2018年06月11日

五 第一次世界大戦後の雑穀商の旺盛期と衰退

 製品の検査に就ては、海産物は明治三十五年早くも各産地に検査員を置き規定を設けて不完全ながら等級を分って売買の標準としていたが、農産物はその種別の多い事と、産地に依て品質の優劣の差が著しいため遅く迄検査の精度がなかったので、売買の都度屡々品質に就て紛擾を来し、殊に国外輸出の場合、公開期間の永いため途中変質腐敗等の事態を惹し、貿易業者に屡々損害を与え国際問題さえも惹起する実情があった。その頃井上安次郎が予て取引していた神戸の三井物産支店に招ばれて北海道雑穀の改良に就て種々の注意を受け、帰樽の上急きょ有志と改善方の協議を行った。 

 そして明治四十四年、函館商工会議所会頭岡本忠蔵、東京雑穀商問屋組合長岩崎清七、三井物産小樽支店長小田柿捨次郎等は共に北海道農産物の死活問題なりとして、石原道庁長官、道選出代議士札幌浅羽靖、函館遠藤吉平、小樽高橋直治外、東、白石各代議士東京三井物産専務山本条太郎等と東京で会合し移輸出検査に関する具体案を練り、種々研究の結果、長官の指示に依り応急策として当事者の組合を作り、此れを主体として移輸出検査を実行する事に決定した。

 組合に就いては、小樽の外、函館、中央(札幌)、東部(十勝、北見)、の三同業組合を設けて連合会を結成し、これに依て、道産雑穀、澱粉の移輸出検査の方針を樹てた。当時小樽の選出委員として、辻吉之助、岩村徳次郎、井上安次郎が選ばれ、大正二年農商務大臣の許可を得、小樽に支部を置いて、中谷彦太郎が組合長となり、前記三委員の外、中村多四郎、高橋直治、香村英太郎、山崎商店、内田長七等の努力の結果、実施された。此の本部は札幌に在ったが、実際の運営は実力者の大部分を占めた小樽の証人に依て仕事が行われた。

 此れに依て北海道雑穀澱粉の声価が国内は元より海外まで挙り、戦時統制の行われる迄の約三十年間小樽輸出品の華として小樽の繁栄に寄与したのであった。

 此の検査機関の完備と、規定の合理的な事に就て戦前本道視察に来遊した外人業者が等しく驚嘆する所である。

 右の様な輸出検査の整備と外国航路の開発に依て小樽の輸出量は、大正元年菜豆百二十円、豌豆六千二百円、澱粉三百十二円であったものが、大正十一年の統計表に依れば、菜豆百三十九万円、豌豆三百五十八万円、澱粉五百八十三万円という驚異的の激増を見たのであった。

 この様に、雑穀、澱粉の輸出が旺盛となるに伴って、検査規定に適合する為め各所に輸出業者や倉庫等に依て人選工場、澱粉精製工場等が設けられ、三井物産支店、中村多四郎、湯浅貿易、林松蔵、井上宇太郎等は争って多数の女工を募集し、豆選に当らせたので労務者の需要も極めて旺盛で、又輸出積出の仲仕艀人夫等の雇用も増加し、その外運搬業者、船舶業者、花柳界方面等各層もその恩恵を蒙り、所謂小樽の雑穀黄金時代が現出したのであった。

 

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