小樽に於ける商人の出現と各種産業の変遷(二十三)

2018年06月22日

五 第一次大戦後雑穀商の旺盛期と衰退

 雑穀好況の当時、青豌豆一俵三十五円にも達した。農家は朝、馬車に青豌豆一俵を積んで部落へ出て、太物や雑貨を山程買って、その帰りに一杯屋へ寄ってしたたか酔って馬車の中に大の字に睡っている中に馬は手綱なしに主人を家迄運んできた、という様な話があった。

 又その頃士別に犬伏という澱粉成金がいた。小樽の商人との間に大量の澱粉を取引していたが余り風釆の揚らない人だった。或る時飄然と貿易小路に現われて、近所のそば屋から方々の店へ山のようにもりやかけそばを配らせた。澱粉屋の小僧達は大喜びで御馳走になったが、此れは本人が気が狂っていて何も解らない間の出来事であったので、結局そばの勘定が問題になって大騒ぎになった事があった。

 又澱粉の印度輸出の際、Eという貿易商が積んだ貨物の中に餡詰といって、等級外の品を饅頭の餡の様に袋の真中に詰めたのが大量に発見されて国際問題になりかけた事等があった。

 雑穀会の盛大な当時は同業組合員百八十七名にも達し、一日の取引高も厖大な金額に上った。尤も当時は現物取引の外、雑穀澱粉の取引所が設けられて盛大な空売買が行われた。一日小樽へ着く雑穀澱粉は毎日百大車にも及んで、各倉庫とも山を築いた。

 大正末期、鈴木合名の青豌豆、手亡の買占に依て、市価は暴騰し、その解合(とけあい)後は反対に大暴落を演じた為実需を目的とする業者は大変迷惑を蒙った。又昭和七年の凶作には輸出業者の海外輸出にする先物契約品が、産地生産者や業者の違約から大部分不渡りとなり、国際的の大問題となり、此の解合の為小樽や神戸方面の輸出商は大損害を被り、倒産するものも多数出来た。三井物産や鈴木系の北興貿易の損失は百万円以上といわれた。

 右の様に雑穀・澱粉の取引に就ては種々の変遷はあったが、日支事変の進展につれて、昭和十四年価格統制令が発布せられ、闇取引の為業者が一網打尽に検挙されて大問題を惹起した。又取引所も閉鎖され、外国航路も杜絶し勝ちで一般の業者も休業の様な状態となる一方、食糧確保の意味から北海道の雑穀の移輸出が制限を受けたので昭和十六年二月企業合同に依って全道の雑穀商が百万円の雑商連を結成し、小樽から松本誠司、井上宇太郎が理事に選ばれ、砂山孝が監査役に就任して一部のものが職員として勤務したが、大部分の業者は職を失い、仲買組合は解散して終戦後も数年間苦難時代を経た。為に終戦後も我国の食糧不足に対して雑穀の配給に複雑な機構を設けたので業者活躍の余地が無く、漸く二十五年澱粉が、二十六年雑穀の統制が解除され、所謂自由販売が出来る様になった。解除後大きな期待を持って七十名程の専業者が旧業に復したが、奥地生産地はコストの関係上昔日の如く小樽に集貨して船積するものも少く、産地直送貨物積が次第に増加し、外国からの需要は価値の上から不引合になって、輸出の面も火の消えた様な状態となった。

 昭和三十四年の統計表に依れば、小樽の業者の数二十八名、終戦前から営業を継続している者は幾許も無かった。嘗て取扱高や輸出量を誇った中村多四郎、井上宇太郎、林松蔵、大成商事等は全く影を潜め、高橋直治、井上安次郎、香村英太郎等も亦姿を没して、昭和三十六年雑穀取引所は札幌へ移転し、東京、大阪方面の業者が主な会員となって、僅かに小樽の砂山孝が取引所理事長として光彩をはなっている。