小樽に於ける商人の出現と各種商業の変遷(二十四)

2018年06月24日

六 三井物産支店と鈴木合名支店

 マル井さんといえば今井呉服店、物産と言えば三井物産の通称で、どちらも多分の敬意を払った呼名であって、終戦前まで永くこれが行われていた。

 マル井の事は別として、物産の三井は明治十六年小樽に支店を設け、最初は石炭と木材を取扱い、石炭は夕張、美唄其他に炭山を経営し同系の会社と結んで、三社売炭所を小樽の手宮に設置し内地行船積に力を注いだ。又木材は道内各地の山林を手に入れて造材を行い、各地に製材所を設け三井物産本社の木材本部として小樽支店は三井の事業中優位を占めていた。其他その資本の下にある各種のメーカーの製品の北海道一手代理として販売し、砂糖、食料、缶詰、セメント、機械、化学肥料等を取扱い、昭和中期には下駄や番傘等に及んで「三井の歩るいた後には草も生えない」など云われる程微細な商品にまで手を延ばした。そして道内の商店数店を撰んで特約販売店とした。勿論その当時の各種雑貨商は資力の見るべきもの少く三井物産としても安心して取引出来る店は幾らもなかった。

 此れに比べて、昭和初期頃から小樽に現れた三菱商事は非常に大まかで、両社の社員を比較すると、三井の社員は英才型で油断もすきもないといった積極的な人が多く、此れに反して三菱の社員は温厚篤実型で親しみやすいと云われた慎重性の人が多かった。又三井のやり方は非常に厳しく社員でも間違いがあるとどしどし首にしたり、他に転任させたりするが、一面その人が何か一つ手柄をたてればマエの位置に復活させたり、更に良い地位を与えたりした。三菱は温情的で弱い商社を保護し、社員は仕事で儲けなくても損をしない程度に真面目にやって居れば順調に昇進させるといわれた。然し三菱の小樽進出は大分遅れたので、商事方面で北海道のため充分活躍する機会を得ないで終った。

 扨てその三井は戦前前の小樽に於ては全く世界的商社として抜群の財力と不動の信用を持ち而もその資本傘下には、あらゆる種別のメーカーや商社があって、その一手販売権を持っていたので、是れに比べると当時の北海道の商店は何れも小売商の範囲で、その力は月と泥亀(スッポン)ほどの相違があった。従て北海道の経済界の王者として終戦前永くその権威を専らにしていたのであって、その頃三井物産の名の入った半纏は質屋の典物として最高といわれ、山田町の古着屋の店頭などにも全く見る事が出来ない程労働者から別格扱いされていた。