小樽に於ける商人の出現と各種商業の変遷(二十五)

2018年07月04日

六 三井物産支店と鈴木合名支店

 三井物産小樽支店はその支店長として、早くは藤原銀次郎、磯村豊太郎、小田柿捨次郎、対象に入って守岡多仲、高橋茂太郎、伊藤与三郎、村瀬貫一等、何れも日本財界の逸物計りであった。此等三井の支店長は代々小樽商工会議所の特別会員として別格を受けていた。後に鈴木合名支店長志水寅次郎も同様の待遇を受けた。

 明治三十九年神戸鈴木合名支店は社員志水寅次郎を小樽の駐在員に任じ、四十三年支店に昇格した。

 神戸鈴木合名は日本で三井、三菱と肩を比べる大商社で、明治の女傑鈴木よねが実権を握り、支配人の金子直吉が全経営の采配を振っていた。大正期における鈴木の事業は海外貿易を初め、金属精錬、造船、機械、製油、樟脳、薄荷、砂糖、麦粉、麦酒羊毛、人造絹糸、米肥、硫安等あらゆる種目を取り扱い、大正八年から九年にかけて全盛期を唱え、本業の貿易で一年取扱高十六億円で三菱は元より、三井を凌駕し、大戦中に獲得した外貨十五億円、スエズ運河を通過する全船舶の一割はニッポンのスズキのものだといわれた。

 小樽では一手販売権を握っていた大日本製糖株式会社(社長藤山雷太)の製品を、その当時道内一流の砂糖問屋であった、函館の橋谷商店、渡辺商店、小樽の松山嘉太郎、小滝弥五郎、札幌の古谷辰四郎、秋山商店、其他数店と特約を結び積極的に販売網を広げ、本道で消費される砂糖の七割まで取扱い、又道産小麦の半ばまで買入れて一日三〇〇石を製粉していた札幌製粉会社を買収し、更に、旭川に支店を設けて附近農村の雑穀殊に青豌豆の買集めに力を注ぎ、釧路支店は枕木其他の木材、北見出張所では薄荷を大規模に買い蒐めた。

 肥料としては、満州大豆板粕の外、傘下の豊年製油の撒豆粕、豊年印白絞油、や独仏加里、英国プランナモンドの硫安等の外、桜ビールを以て札幌ビールと激烈な競争を演じ、大日本酒類の焼酎を千島、樺太迄拡売した。又関東州に塩田を開発し手子会社の大日本塩業株式会社と結び、又外国塩を通過貿易塩として安価に漁業家に鬻ぎ、小樽、函館の保税倉庫に常に四、五万屯の貯蔵を持っていた。函館では塩の外噴火湾の鰛油を大量に買集めて関係会社の合同油脂へ納め、会社の製品のレコード石鹼や洋蠟燭を販売した。

 此れと同時に、子会社の帝国汽船が裏日本定期航路を開き、国際汽船や川崎汽船の代理店として、欧州航路の巨船を利用して樺太、沿海州の木材を本州へ輸送し、又浪華倉庫の支店を設置して小樽の倉庫界に大きな地歩を印した。

 斯の如く、此の鈴木合名が突発的に出現して、中級の積極的な商社を援助して短日月の間に全道を風靡し、旧の暖簾の三井物産を圧倒し、本道の経済界を瞠目せしめたのであった。此の両者の対立は小樽商人にとっては大に幸いし、その後遅れて進出した三菱商事を併せて、これに関係を持った各商店は此の三社の後援と庇護の下に、他都市の商店より常に有利な立場に立ち、小樽をして道経済界の中枢地たらしめるのに大きな力となったのである。