小樽に於ける商人の出現と各種商業の変遷(二十六)

2018年07月05日

六 三井物産支店と鈴木合名支店

 然し鈴木合名は第一次大戦後昭和二年台湾銀行からの融資借入金が四億円の巨額に達し、遂に、倒産の悲運を招いた。是れがため国内有数の銀行に取付騒ぎが起り、金融大恐慌、内閣瓦壊等の基となった。そのため一時的に動揺した道内の鈴木系統の業者は、鈴木没落後の三井物産の独断専行を恐れて鈴木の後継会社を設立すべく、旧社員と大得意先と協議し、大成商事株式会社を設立し、前支店長の志水寅次郎を社長とし、松川嘉太郎、小滝弥五郎、河路尚吉(小樽)、古谷辰四郎、松本菊次郎(札幌)世木沢藤三郎(旭川)、金沢冬三郎(日糖重役)等が役員となり、株式の半数を大日本製糖が、他は重役と社員が持つ事とし、旧メーカーや関係会社の北海道に於ける鈴木の地盤をその儘継承して再起したので、一般の同情に依り従来以上の発展を見るに至って、大成、三井、三菱は並んで支那事変頃まで雌雄を争った。

 ところが、昭和十五、六年になって戦時色愈々濃厚となり、次第に統制経済の時代となった為め、各種の物資を三社から受けて地元及び地方小売店に卸し売していた。一般問屋は品目別に組合を結成せられ、砂糖、麦粉、食料油、肥料、米穀等は此等を取扱った数年間の数量実績に依て組合の株を持ち、社長又は店主はそれぞれ組合の理事長又は幹部となり、社員や店員は組合の職員として配給の任に当った。此の事は別項の雑穀、海産物、木材、繩莚類に就ても同一の径路を辿ったのであったが、これがため前記の卸商は自家の重要取扱品を組合に提供して、止むなく小規模の統制品以外の商品を取り扱うか、又は休業或は廃業する外なかった。尤もその当時の若い者は大抵応召又は徴用せられていた。

 ところが、前記三社の大卸商は総べて卸売計りで小売取引の実績が無く、卸屋へ卸した商品は、既に卸屋の小売商に卸した数量と重複するため組合に加入する資格を失い全く鵺的存在として一部の者が組合の幹部に採用された外大部分の者は窮況に墜った。

 その後終戦に依て財閥は解体せられ、集中排除法に依て系統会社の株式、役員等はばらばらになって、所謂資本主義の威力は失われた。その後数年を経て、三井、三菱は一応本来の姿に立ち戻ったが、然しその頃は内地の大商社や大メーカーはその発展の地盤として北海道の新天地を目指し、殆んど札幌を中心として侵入して来たため、三井、三菱は卸売商として昔日の面影を失ひ、大成商事も全く別種の商品を取扱って活躍しているが、三社ともに当時の大卸売商の威力が全く消滅した。