小樽に於ける商人の出現と各種商業の変遷(二十七)

2018年07月06日

七 樺太の領有と造材屋の活躍

 小樽に於ける木材の取引の歴史は古く、明治初年から角材、枕木、マッチ軸木、銃台木等が、京浜阪神方面へ移出され、又輸出に就ても、中国、朝鮮初め英米に迄及んでいた。

 造材屋として当時有名なのは、三井物産と天塩木材(後の小樽木材)で、各地の国有林の払下を受けて伐採し、三井は砂川其他に木工場を設けて挽材を作り道内本州方面に盛んに移出していた。又大倉系の天塩木材も北見沿岸に製材所を設け、第一、第二小樽丸を所有し三井と競争的に内地へ移出していたが、遂に三井の力に圧倒、買収されて小樽木材と改称し明治四十年代に解散した。

 然し小樽人の造材屋が急激に発展したのは日露戦勝による樺太領有後である。樺太は森林の宝庫で代々の長官は何れもその開発に力を注いだ。初代平岡長官は時の三井物産小樽支店長藤原銀次郎に樺太材を原料とするパルプの研究を依頼し、藤原は多年苦心の結果輸入パルプと匹敵する製品を造り出す事に成功した。その後樺太島内各地に、王子製紙、富士製紙、樺太工業等の製紙工場が続々と設立され、又此の原料採取の為小樽の造材屋は次々と渡島した。然しその頃建築材としての樺太材はまだ中央市場に歓迎されなかったが、大正八年頃、樺太全島に未曽有の害虫松毛虫が発生し、樺太庁は林木防護の目的で森林を大量に伐採して内地へ移入した。当時樺太庁の援助で、樺太林業株式会社が、湾内の孫杖、内砂、雨竜川、武手、泥川、菱取、鉢子川の各流域から一ヶ年に移出した材が三百五十万石にも達したという。その一方本州では東京震災に依て厖大な木材の需要が起ったので、両々相俟って樺太の北洋材の名声が俄かに挙ったのであった。

 其の後、三井と山中商会は、樺太敷香に木工所を設置し、又新宮商工、秋田木材、増田木材、湯浅木材、奥村木材、亀田浦吉、糸井商店等は敷香に出張所を設け、樺太庁から特売払下を受けた箇所から材木を伐り出して島外へ積出した。

 樺太に於ける小樽業者の活躍振りを示す意味で、昭和七年樺太材統制販売組合で移出許可を受けた業者名と数量を揚げれば左の通りであった。