北の誉れ 〇ヨ野口酒舗(稻穂町二 電話 四五番)

2017年11月27日

▷「北の誉」は野口のほまれ◁

 丸ヨと云つた丈で、 直ぐ石橋氏の醤油と首肯くやうに、「北の誉」と云えば、稻穂町丸ヨの酒かと合點する丈賈弘められて居る銘酒である。野口商店の屋號丸ヨ印は、名高い石橋家暖簾分けの榮譽を荷つたものだが、其因緣は後に譲ることとして、さて明治三十二年に初めて醸造販賣された銘酒「北の誉」は、賣出早々非常に愛用されて、到底小規模では一般の需用に應ずることが出來ぬ勢ひから、即で石橋家の翼けを得て、三十五年に奥澤村に大醸造場を設け、爾來盛に製造して今日に及び、現在の醸造高は三千二百石に達し、尚ほ旭川へ支店野口合資會社を設置し、第二醸造場を設けて一千二百石を造り、今や全道に渉つて十箇支店を有し、區内屈指の焦点として知らるるに至つたので、誰云ふとなく『北の誉は野口の誉れ』と持囃すやうにたつたのである。

▷石炭積人夫と爲つた野口氏の成功◁

 自分の成功した、 徑路を赤裸々と話すのは、我現在を誇るのでもなければ以前の恥を曝すのでもなく、軈ては立志靑年の興奮劑ともなるのだ。と云ふ主意で聞かされた話はかうだ。

 店主野口吉次次郎氏は、加賀の國河北郡の片田舎、花園村の生れ、幼にして野口家の養氏となり、金澤市に醤油の賣子をしたといふことから、其生活の貧しかつたことが知られる。賣子に失敗してオタルへ來た氏は糊口に窮して頼るところがなく止むなく一時手宮鈴木艀部に石炭積の日雇人夫となつたのは明治十七年、それから間もなく妻と共に石橋醤油醸造所に雇はれて他の物とは違つた誠實な働き振りと其の道に多少の経驗を有するとの點から、杜子に採用さるる破格の昇進をした後は、益々勤勉力行他の模範となつたので、主人の信用一層厚くなり、二十四年には傍ら市中の御用聞をもなし、次で手宮に石橋醸造場附屬販賣店を開いてから、之れを擔任して誠實と勉強とで顧客に名を知られ、後ち三十一年に現住所に移轉擴張し、遂に丸ヨの商號を分たれて野口商店となり、三十二年主家の賛同を得て酒造業を開始したのである。

 兎角、 苦しんだ人でなければ、同情が薄い物である。散々辛苦を嘗めた野口氏が、店員を手盬にかけて勞はるのも、洵に人の稱揚する美點である。

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~棟方虎夫『小樽』(大正三年)より

p588~590

~2017.11.27