明治の政商 上

2017年05月15日

〝政争のまち〟をつくる

  海産、海運界のダンナ衆

 赤岩の洞クツ…幼児にきいたこの神秘のトビラを成年になってから開いたことがある。

 このごろロック・クライミングの練習場と化し、時々犠牲者がでるあの絶壁の上部にあるのだが、海側でなく陸側の山スソからのぼっていくと途中からガケに出る小道がわかれている。これをすすむと急坂になり、ガケとなるが太いハリガネ一本がたよりで、舌をみるとクラクラとくる。

 頂上近いところに小さな横穴があって、高島町名由来の聖なる高島良範がこもって修行したところだという。もう、穴の横側が抜けて、そこから垂直の岩肌、はるか下のなぎさに白波がくだけるのがみえる。命からがら頂上によじのぼると石狩湾のかなたに増毛の山のおぼろ青さ近くに歌碑があって

 忍路・高島およびもないが

  せめて歌棄・磯谷まで

 建てたのは道内の追分節愛好者、昭和二十八年。揮ごう鈴木翠軒。女人禁制にからむ一句とされているが、モト歌は せめて歌棄・磯谷だけ 

 すなわち『諸人用さしひき七千両を得る』豪奢しゃなニシン場請けおい場所の利権あらそいがスゴく、むかしそれを風刺して松前城下に張られた落首とはすでに知られた話。漁業権と女人禁制をなげく女心とたった二文字ですりかえられたわけだが、モンタージュの作者は不詳。この神威岬のタブーは安政二年に宗谷ゆきの幕吏梨本弥五郎が敢然と破ってみせ、以来、女づれ移民の殺到となるが、請けおい人のひとり岡田弥左右エ門は小樽山ノ上町をひらき、南樽発展の土台をつくっているから、梨本、岡田は小樽の夜明けを呼んだことになるだろう。

 赤岩をおりてくると祝津、そして水族館、百聞は一見にしかず、つれていった親せきの子どもが『札幌の動物園よりおもしろかった』と作文しているからPRしておく。完工が昭和三十三年。台上のニシン御殿は明治から大正にかけて泊村でニシン大尽とうたわれた田中福松の往昔の姿をしのぶよすが。七年間かけてつくったものだが、最後の所有者の北炭が移設して小樽市に寄付。三十五年道文化財指定。

 御殿とまでいかなぬが水族館付近のヤン衆が泊った番屋のデカさと空しさ。茨木漁場、青山漁場、白鳥漁場らダンナ衆のユメの跡だ。東北からくる出かせぎヤン衆が三千、大正初期まで一カ統(約三十人の人手)千二百石(九百㌧)とれ、それが七、八十カ統あった。という。小樽商人があそんだ南廓(松ヶ枝町)に対して北廓(手宮遊郭)を作ったのも彼らだ。ニシン回遊は昭和二十九年の千七百㌧がさいご。いまは定置もない。ビキニスタイルの娘らが『チョットなあにこの幽霊屋敷?』。

 明治の小樽の富豪たちは福山漁場から北上するニシンを追って来樽したのが多い。あるいは米、雑こく、雑貨商からはじまった北陸派の板谷、高橋、寿原一族、早川両三岡崎謙ら。ストレートの漁業からスタートはだいたい奥州派。ハッキリ分類できぬが、ナマのカネをにぎって小樽におちついてからその発展ペースにのって一様に海産商か委託販売(仲買い人)そして海運と倉庫、奥地の農場確保。小樽市内の土地買いと金融業に向い、なかには麻里英三のように〝麻里見番〟といった芸者の置屋まで手を染めた海運業者もいる。息子が長く道議をやっていた初山別の麻里悌三(道指導漁連会長)。

 名をあげると小樽功労者である二代目区長山田吉兵衛、その前の小樽高島戸長船樹忠郎西川貞次郎、藤山要吉、青森漁場から明治七年に小樽へ進出して土着、金融業になった木村円吉先代、勝納総代布施勝太郎、秋田の遠藤又兵衛、塩谷漁場の渡辺兵四郎四代目区長、西谷庄八、犬上慶五郎、佐藤松太郎、海産仲買いの田中武左エ門、金子元三郎、塩田安蔵新谷喜作、北陸系山本久右エ門、石狩のコンブ漁場でのした井尻静蔵、いやまだたくさんあるが成功者の大半は海産、海運界のダンナ衆で、しかも初代板谷宮吉以外は政治に血道をあげて政友会だ、民政党だと北海道一の政争の街をつくりあげる。カネを費消したかったのだろう。

カットは阿部貞夫

さしえは伊東将夫

~北海道人国記 小樽⑦ 北海タイムス

昭和42年8月2日(水曜日) 奥田二郎より