三駿馬

2018年07月21日

 生活競争は激じん

  小樽人は疾駆す―と啄木

 むかし電気館通りといったアーケードの商店街でフト気になった。五十がらみの紳士の歩調がまことに悠長である。ふつうのテンポで苦もなく追い越す。みると女子どもの歩きぶりもノンビリだ。

 『小樽商人は駿馬のごとく、札幌商人は牛のごとし』は明治三十年発行の札幌沿革史の一節で『比類なき悪路を小樽人はものともせず疾駆しつつあり。しかり小樽人は歩行せず、常に疾駆す。小樽の生活競争の激じんなることはほとんど白兵戦に似たり』は小樽日報記者時代の石川啄木の毒舌。

 突撃ラッパの白兵戦はいま札幌陣地にうつったが、駿馬疾駆時代の小樽はどうであったか。

 用もないのに東京中を馬車にのって走っていた見栄坊の二代目金子元三郎、十六才で遊郭にしけこみ、二十二歳で右翼の頭山満とつきあい、やがて新聞に手を出し、主筆に招いた中江兆民と飲んであるく。東京の芸者は『金子の殿様』といったそうだが、八代目道庁長官園田安賢の娘を妻とし、憲政会初代小樽支部長として高橋直治とわたりあって代議士、のちに貴族院多額納税議員となる。

 園田は〝勤倹貯蓄〟を呼号しながら、夜は待ち合い政治にひたった権力者。薩摩伍長から警視総監にまで栄進さらに八年の長期を〝赤レンガ〟に在任したが、小樽市稲穂町官有地払い下げ事件の国会追及がイノチとりになった。小樽と園田、金子の知らぬ話ではあるまい。

 初代金子は金力による初代の小樽区長で、福山から利礼の漁場を制した網元。明治二十一年に二代目に跡目をゆずっているが、二代目は海産物委託業で財をなくした。

 東京の吉原で〝エゾの大臣(おとこ)〟といわれたのは海運の藤山要吉。秋田県田名郡出身で古谷姓を名のり明治五年に福山の田中武左エ門の漁場を手つだい、ついで小樽で一と旗あげるべくやってきたところ、海産商藤山重蔵がほれこんで養子にむかえる『なんで養子に?』と人がきいたら『あの顔が気にいった』。なるほど眼光するどく二クセ三クセありそうな要吉はこのとき二十二歳。幌内鉄道ができると和船二隻を買って海運をはじめた、やがて天塩運輸会社をつくり、利礼から伏木、敦賀航路に手を伸ばし『板谷は大型船、藤山は小型』でかせぎ、下ノ関、ウラジオ、サガレン航路にものしてゆき、板谷とともに七ツの海に雄飛した。南カラフトが日本領になるとここに漁場をつくり、カラフトの日本海沿岸の土地のほとんどは藤山のものといわれた。山林、農場も持ち、大正期はカラフト材の積み取りでかせぎ『どうやってカネをつかうか』と思案していたという。木材業者が船のうばいあいで船腹はいくらあっても足りない黄金時代、木材を中心に石炭や各商品の運賃相場を小樽がつくり、青エンドウや手亡などの小樽相場はロンドン市場を左右していた。船会社の第一線では島谷汽船の島谷俊郎、大西汽船の大西清二、板谷商船船主任八木康之らが活躍。

 藤山は、明治四十四年に皇太子(大正天皇)ご来道ときくと、巨費を投じて小樽公園内に御殿ふうの大邸宅をつくり、これを区に寄付してご宿泊所としている。のちの公会堂。

 こうしたスケールでは小豆(アズキ)将軍高橋直治、二代目金子元三郎、藤山要吉が明治のベストスリーであろう。

 大正七年に貴族院多額納税議員の選挙があって全国の海運界から四十一人が出馬したがそのうち北海道は十二人を占め、小樽からは藤山、山本厚三犬上慶五郎酒井正七らが名のりをあげている。犬上は当時の北海道鉄道の株を買占めて千歳線の沼の端―苗穂間を完成させた。

 山本は、福山漁場から小樽へ上ってきた山本久右衛門の養子。弟の広谷弁護士の子に共産党の駿馬広谷俊二がいる。山本の末弟が平沢亮造。小樽倉庫業界の古手で、道体育協会会長を戦後ながいことやったスポーツ界の大功労者。数年前に他界したが、かつて経済とともに全道を牛耳った小樽スポーツ界のなごりであった。

カットは阿部貞夫

さしえは伊東将夫

~北海道人国記 小樽⑥ 北海タイムス

昭和42年8月1日(火曜日) 奥田二郎より