海難救助と小樽

2017年03月17日

「海はわが国を活かす〝動脈〟であり船は〝血液〟といえる……」

 これは、財団法人日本海事広報協会が昭和63年に発行した「海事知識」という本の序文の一節である。

 海に囲まれたわが国は、人や物資の輸送、水産資源の獲得、海底開発など、海と船に支えられるものが多い。

 また、それだけに海難事故も昔から続いて起きている。

 現在は、海上保安庁のほかに、民間の救助機関として日本水難救済会という法人組織がある。

 東京に本部を置き、全国に支部(24ヵ所)、救済所(295ヵ所)を設け、約2万人の救助員が活動している。

 今回は、小樽における海難救助の過程について振り返ってみたい。

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 小樽救難所の創立は明治22年であったが、帝国水難救助会とは関係がなかった。

 小樽市史(第2巻)によると、昔の小樽沿岸では船の遭難が多いため、明治22年、山田吉兵衛、船木忠郎、渡辺兵四郎らが中心となって小樽救難所を設立。

 明治24年には、この救済所を帝国水難救済会の小樽支部とする運動を起し、明治32年に許可を得た。翌年にこれらの施設が竣工したので、南浜町において仮の開所式を行った。

 そして大正時代に入るが「新北海道史」第5巻には次のような記述がある。

  『海難の防止と救助を目的とする帝国水難救助会の北海道支部を小樽に誘致しようとする運動が、小樽救済所を通して行われ、北海道救護活動の先駆的役割を果たしていた。

 その小樽救済所の設備が整い、正式の救済所と認められ、大正8年8月1日に開所式が行われた。

 更に、同月3日には、総裁東伏見宮が来樽されて、帝国救済会北海道支部が発足した。

 昭和に入ってからは、北海道を代表する小樽支部の呼びかけに応じて、主要海岸市町村に救済所が設けられ、なかには住民の拠金によって救済船を設置する市町村も多くなり、地方における海上救難活動も次第に活発になった……』

 これを見ても、当時の小樽が示す熱意と底力が伺われる。

 8月3日の発会式に来樽された東伏見宮と妃殿下は、御召艦「伊吹」によって小樽桟橋に上陸されている。

 正式には、総裁海軍大尉東伏見宮依仁親王殿下である。

 両殿下のほか、川島海軍中将、花房海軍大佐、宮内事務官、官女が同行され、藤山要吉別邸においてきょう宴が開催された。

 同日は午前10時から小樽公園グランドで行われた。

 総裁より令旨がある、これに対し北海道支部長の笠井信一(道庁長官)が答辞を述べている。

 なお、両殿下は藤山邸に宿泊されて翌日には、港のケーソン沈下を視察されている。

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 大正8年といえば、前年に終結した第一次世界大戦の講和条約がベルサイユで開催された年である。

 国内では、松井須磨子が故抱月を追って自殺。東京の高島屋、松屋、白木屋が百貨店を開業。       

 本道においては、札幌、小樽、室蘭、旭川、函館の各区が区内物価の調節策として公設小売市場が開設された。

 小樽では、ゴム、造船、製糸などの会社などが設立されて、経済の発展に寄与している。

 文化面においては、小田観蛍が歌集「隠り沼」を刊行。戸塚新太郎らも歌集「くろばあ」を創刊した年である。

帝国水難救済会北海道支部発開式を記念して発行された絵ハガキ。中に印刷された写真は総裁と当時の小樽港。押印は大正8年8月3日となっている。

~小樽市史軟解 第2巻 岩坂桂二

月刊ラブおたる 平成3年11月~5年10月号連載より