新聞

2017年03月12日

 小樽芸者を相手に

  中江兆民 浩然の気を養う

 『なにを物好きに未開の小樽のイナカ新聞の主筆までひきうけたのか』

 文春に連載されていた〝火の虚舟〟(私説・中江兆民)で松本清張はそういう疑問をなげかけ『大体、北海道は黒田清隆開拓使長官以来、薩閥の地盤です。北海道の天然資源の利権は薩閥がおさえている。そういう吸血魔の実態を知りたいという気持が薩閥を憎む彼にあったのではないか』と推理する。

 明治二十三年の第一議会で、代議士である中江兆民は首相山県有朋らの藩バツ政府のやり方を不満として『アルコール中毒病相発し行歩困難…』を理由に議員半年目でやめてしまう。そして北門新報創刊号に『内地にいて北海道をのぞむのは、あたかも炎天に冷水をの看板をみるよう』といった原稿をおくり、さらに七月二十七日に小樽へのりこみ、相生町二十七番地にあった元小樽郡長の別荘を借りて飯たきの老婆をやとい入れ、十一月に母の病気で帰京するまで在樽、いちど稚内にまで旅行している。

 北門新報の社主は雑こく相場で当てた金豪二代目で小樽の政、財界の大立者の金子元三郎。白カベの邸はまだ富岡町に残っているが、明治二十四年に北門新報の創刊とともに当時おどろくほどの高給で兆民をむかえ、東北以北第一の新聞と謳った。兆民はスポンサーの金子といっしょに紅灯の巷に出入してエゾ一番の小樽芸者を相手に浩然の気をやしなったが、夏でもアワセをきていたという。北門は二十五年、札幌大火で北海道毎日新聞が焼けたのをチャンスに札幌へ移転している。この道毎日はのちの札幌区長阿部宇之八の経営となるが、そもそもは小樽の山田吉兵衛が二十一年に区庁活版所の賃下げをうけて週刊でスタートしたものであった。

 つぎに小樽の言論界を牛耳ったのが二十七年創刊の小樽新聞で、早大出の道毎日記者上田重良しが創始、彼の没後は夫人の寿満子が日本でただ一人の女新聞社長として経営し、金子あるいは山本厚三といった地元の民政党ボスの支援をうけて党の機関紙的な性格で発展した。かくて昭和十七年の新聞統合まで札幌の北海タイムスと道内二大紙対立時代を形成するが、終盤は先代地崎宇三郎の手に経営がゆだねられていた。地崎は初代から勘当されて小樽で独立独歩の道を会得した男。したがって三代目の現代議士も樽中(現潮陵高校)の出身。成績下位、まったく目立たぬチビの中学生だったそうである。

 山本のカバン持ちだった故椎熊熊三郎(元衆院副議長)も樽新記者で、、山本の演説会の前座では即席警官の『注意』三回もクソくらえ、警官席に尻をむけセセラ笑い、聴衆の大拍手をあびたあげく『中止』を命ぜられ、さいごは検挙というおきまりのコースで庶民の人気を得ていた。三十五、六年前の椎熊のファイトは近頃の左翼以上であった。息子正男はこの一月の衆院選で悪戦苦闘、山本の後継者は小樽高商を出て拓銀で勉強した小樽倉庫社長山本信爾

 民政党に対する政友会は地元代議士の寺田省帰がカネを出して道議山内信弥に北門日報を創刊させるが、これは小山健蔵の小樽商業新報などとともにあまり伸びなかった。しかし樽新も決して景気のいいところではなかった。水天宮のガケ下の海っぷちに建っていた石造のうすぐらい社屋で、おそるおそる先輩に『月給日はいつでしょうか』ときいた新人社員が『きまっているわけではないよ』といわれて仰天した話、昭和十五年のことだ。いまの道新社長中野以佐夫がこの樽新出。道内十一日刊紙の戦時統合は民政系の樽新も政友会系の北海タイムス(旧)も混合してしまったが、新聞が政党の武器だった時代はこれでおわっている。

 思い出す小樽新聞人の中で奈良勝美、野口小太郎、刀根武雄、中西亀次郎などの古い名が浮かぶが、異色は、筆名石狩三平の泉隆。今春小樽市議当選、定年後の第二の人生。また業界紙の草分け元市議会議長島野一二。現北海タイムス小樽支社長緒方一彦は倶知安中学時代、走幅とびの全道レベル。

カットは阿部貞夫

さしえは伊東将夫

~北海道人国記 小樽② 奥田二郎

北海タイムス 昭和42年7月28日(金曜日)より

ウィングベイ2F

によると

大正7、8年ころ?(人口が11万8千人余のころ)

の新聞業は6社ありました